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Modern

テキスト作品

  • 十界 鬼勇童子さん 2022/09/23
    09:43

    みんな 生きている
    みんな 嘆いている
    みんな 赤い眼を持っている

  • 彼岸花 マリーヌさん 2022/09/20
    12:11

    夢の続き
    私にはよく見る夢がある
    真っ暗な中に彼岸花が咲いており

  • プロジェクター(Copy) AzureHeadさん 2022/09/17
    18:50

    プロジェクター
    1
    「…これで二台目なんだ。」

  • 青の歌姫 第2話 ひとりとひとつ lefthorseさん 2022/09/01
    06:48

    どこまでも続く青い花の丘と、その向こうに広がる水平線。
    空と海が青いグラデーションで結ばれている。
    「これは……」

  • 【黄金の吸い殻】 古郷さん 2022/08/25
    18:19

     失いきってしまえたらよかったのに。頭の裏側の端のすぐ隅のほうに突き刺さっている、ソリッドな絶望感がどうにも足を背を急かしてたまらない。解釈の歪められた空を飛ぶ、烏が落ちる、天を滑る、その優雅なさまを念う。
     失いたくなかった。手放したくなかった。忘れたくなかった。自由も。記憶も。命も。どれも過去形だ。得るものがなければよかった。そうであれば失うものだってなかったはずだ。そう思えたらどんなにいいだろう。
     思えなかった。俺は得てしまった。捨てられなかった。 目の前に落ちてきてしまった星はこの手の中に収まって、それがどうにも暖かくていけなかった。いっそそれが空へと還ってしまう前に、力尽くで、ひと思いに、拳を、握ってしまえたらどんなに。それができなかったからこんなに自責が首を絞めるのに!

  • 虎穴怎么在卖我老公的本子 东方凛月さん 2022/08/10
    23:59

    汉语作品注意,是bg
    作者提示:设定一般男性歌手kai和一般家里蹲p主mas(有体力差)
    家庭户型参考小埋哥哥家(感觉很舒适)

  • 「でかミクと俺の物語」その2 ロイさん 2022/07/30
    05:43

    でかミク「それでもいいじゃない。昨日もダーリンのそばに居て、今も目の前にいる。毎晩『愛して』もくれてるでしょう?」
    ロイ「(//∇//)」
    でかミク「でもね、マジカルミライでミクが歌っている時、私たち『うちのミク』は『初音ミク』と一体になって、『みんなのミク』になるの。だからマジカルミライでは私たち『うちのミク』はオーディエンスではなく、演者になるのよ。」

  • 「でかミクと俺の物語」その1 ロイさん 2022/07/30
    05:36

    小説「でかミクと俺の物語」
    ロイ「でかミク、俺、やっと気づいちゃったんだ」
    でかミク「何を?」

  • Tips for Using Real Dolls oursdollさん 2022/07/20
    15:25

    When you first learn about life size sex dolls, you may be surprised by the techniques used with silicone sex dolls and beautiful faces. Even people who have already bought tpe sex dolls don't know how to use and maintain mini sex dolls, let alone people who are using or buying them for the first time. Love dolls are very expensive, you have to be careful with them, use them longer, and get a better experience with anime sex dolls.https://www.oursdoll.com/
    Avoid Violence
    The material of the life size sex dolls is soft and easily damaged.https://www.oursdoll.com/collections/life-size-sex-dolls/

  • 動画のための短編小説 mini_miniさん 2022/06/11
    18:11

    <動画用の短編小説>
    とある研究者の実験室で、核の力を操る事の出来る小公女が見つかり、話題になった。 国の王はこの話を聞きつけ、秘密裡に彼女を捉えた。 少年少女探偵団は消えたお姫様の謎を解くために奔走する。そんな最中に不可解な爆発が起こり、何日も黒い雨が降り続いた。 やがて探偵団は不思議な話をするある男を探り当てた。 その男の話によると『小公女には特別な能力が有り、核爆発を制御できるのだ。』続けて、『だから俺は消えた彼女を助け出したいのだ。』と言った。
    黒い雨はその後も降り続き世界はセピア色に染まった。

  • 咲が失踪していたそうです… 兎岻咲さん 2022/06/08
    20:40

    いつも見てくれる人「あんたまた失踪して…たんだな?」
    咲「え?なんのこと~(汗)」
    見てくれる人「5月で止まってるよ?」

  • 青春って orobOさん 2022/05/22
    14:44

    青春はいいねって大人たちが言うたび、青春なんてわからないよ。
    大人たちはもう青春の住人じゃないから、あの青さが何の色かなんてわからないよ。
    あの青さはなぐられたあざの色ってこと、

  • 初音ミクが増える あきおかこうきさん 2022/05/13
    19:59

    初音ミクが増えました

  • 夏の詩(し) knchさん 2022/04/24
    10:40

    夏の詩
    どうやら、夏は終わったようだ。
    乱立するビルが空を突き刺している。

  • 春の傍-かたえ- StarTrineさん 2022/04/23
    20:59

     ランドセルを背負うのも最後の年、大好きな桜が咲く季節。
    喧噪に包まれた放課後、今日も同じように見慣れた男の子の下へ行く。
    小さい頃から一緒に育ってきた、いわゆる幼馴染という間柄だ。

  • マスターが死んだ……?(現実逃避(?)Ver.) 漆黒の王子さん 2022/04/15
    18:01

    ミクの場合
    マスター?マースーター!
    どうして返事してくれないの?

  • 土岐明調査報告書「函館書肆物語」第1章 調査依頼 nomanomaさん 2022/04/12
    07:02

    第1章 調査依頼
     土岐が函館に来たのは2回目だった。1回目は中学校の修学旅行だった。高田屋嘉兵衛の像、土方歳三最期の地碑、五稜郭公園ぐらいしか記憶に残っていない。千賀と二人で、集団行動をとらず、集合写真に遅れて、記念写真に写っていないのが、共通の思い出だ。
    羽田からANAで80分で夕方近く到着、空港からバスで、函館駅に向かい、千賀が店主を務める久遠堂書店のある東雲町に向かった。

  • 土岐明調査報告書「函館書肆物語」エピローグ nomanomaさん 2022/04/12
    07:00

    土岐明調査報告書「函館書肆物語」野馬知明
    エピローグ
     上野の桜の散った頃、高校時代の同級生からメールが来た。

  • 桜色-小説 Lunamikanさん 2022/04/24
    00:34

     目が覚めると青空が窓から覗いていた。窓を開け、外を見ると桜の花びらがひらひらと舞い落ちている。突然だが、私には密かに想いを寄せる人がいる。決して仲が悪いという訳ではないのだが、自信が無くて想いを伝えられないまま長い時間を過ごしているので桜の花びらに想いを乗せて相手のもとまで飛ばせたらとまで考えてしまう。
    そんなことを思いつつも、窓を閉めて部屋に戻る。今日は日曜日、特に予定がある訳でもないので家でゆっくりとするつもりである。ふと椅子に座ってぼーっとしていると日常生活についてのことが思い起こされる。
    色んな人と仲良くしたい為にいつも相手のことを考えて行動するのだが、心から楽しいと思えたのはいつが最後だっただろうか。本心はいつも自分の狭くて、暗くて、深い部分にあり、その事に気付く人は誰一人としていないのが現状である。いつも行動と心が乖離しているのだ。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」エピローグ2 nomanomaさん 2022/04/08
    07:13

    ■海野と別れ兜テニスクラブに着いたのは六時過ぎだった。ロッカーに百万円をしまった。ビジターフィ―を支払ってコートに出た。朝方の雨のせいかコートが湿っぽい。厚化粧の智子が声をかけてきた。「時山さん。おひさしぶり」妙になれなれしい。土岐が手首の関節を回し始めるとリストサポーターをはめ乍智子が近くに寄って来た。「あなた本当は土岐さんって言うんでしょ?仁美に全部聞いたわよ」「全部って」「仁美のストーカーやってる事」そう言い乍コートに入って来た仁美に胸の辺りで小さく手を振る。前回同様三十分ばかり準備練習した後ゲームを始めた。メンバーは前回と同じだった。違ったのは仁美の態度だった。自分がミスをするとパートナーに謝り、パートナーがエースを決めると弾んだ声で「ナイスショット」とほめた。全く別人に見えた。薔薇の棘の様に体中から突出ていたよそよそしい態度がビロードの様な温かで滑らかな態度に変わっていた。顔も体も一週間前と全く変わっていないのにこの上もなく愛らしい女に見えた。練習が終わった後仁美をインサイダーに誘った。智子も付いてきたので店の前で目配せして帰って貰った。仁美がバッグを小脇に抱えてフード付きの撥水コートを着た儘席に着くと「九時迄ですけどいいですか」と中年の女店員が聞いてくる。時計を見ると八時半になる所だった。アメリカン珈琲を注文して店員が去ると土岐は百万円の入った茶色の紙袋を仁美にぎこちなく差出した。「これ受取ってほしい」仁美は、何にという様な眼をして顎を引いて紙袋の中を覗込む。仁美の視線が瞬きをした後硬直した。「こんな物受取れません」と責める様な目線で土岐を捉える。土岐は縋る様な面差しで言う。「お願いだ。受取ってほしい」仁美はやんわり断る。土岐を傷つけない様にという思いやりが感じられる。「受取る理由がありません」土岐には仁美の思いが分かる。分っても尚、言わずにはいられない。「だって民事で事故の現場を目撃してないと証言したらUSライフからの介護保険金は停止するでしょ。特養ホームの入所費用が払えなくなるでしょ」「大丈夫です。こんな物貰わなくても裁判では本当の事を話します。母は特養ホームから出して引取ります」仁美が躊躇しているのはカネの出所らしい事は推測できる。しかしそれが言えない。カネの出所を言わないで仁美に受取らせる事は困難だと感づいてはいるが言えば尚更仁美は受取らないだろう。「引取るってあなたが会社に出たら誰が面倒みるんす」「祖父が見ます」「おじいさんだってリウマチで身動きできないんしょ」「糸魚川の家を処分してバリアフリーのアパートを借りて三人で暮らします。祖父と母の年金と私の給料で何とかやってけます。それに祖父のリューマチはそれ程の重症ではないんです」と言う仁美の口調にはこれ迄の人生の苦難と持って生まれた利発さが滲出ている。そう言う仁美に抱締めたくなる様な愛おしさを覚える。「そんな事言わないで受取ってくれ。あなたには受取る権利がある」土岐の申出を仁美は聞いていない。「それに母が廣川の娘である事がDNA鑑定で分れば、少し遺産を分けて貰えるかも知れないし」「それはお母さんの当然の権利だ。DNA鑑定の手配は僕に任せてくれ」そこに珈琲が運ばれてきた。珈琲豆を焙煎したアロマが鼻の奥を擽る。仁美は店員の姿が見えないかの様にストッププモーションの様に首を横に振続けた。その動きを制止する様に土岐が言う。「分った。それじゃこのカネでおじいさんの骨董品を買わせて貰う。それならいいでしょ」仁美は何も答えない。土岐はポケットからサイコロを取出して仁美に見せた。「いいかい。これからこのサイコロを振る。よく見といてくれ。もし偶数が出たら黙ってここでこの百万を受取っておじいさんに渡してくれ。糸魚川の店にある掛軸でも壺でも何でもいいから百万円分売ってくれと伝えてくれ。もし奇数が出たらこれ迄の事は一切なかった事にしよう。僕は僕の依頼人の為に民事で勝訴を得る為に全力を尽くす。君は君で君のやりたい様にしてくれ。君の周りから僕は完全に消え去ろう。いいね」と言い乍仁美の瞳を覗込んだ。仁美は土岐の言っている意味を理解できない様でうろたえている。「そんな」と言うのがやっとだった。「よしサイコロ振るぞ。その前に一つ教えてくれ。帰宅の時茅場町でいつも会社に近い7番出口でなくて十番出口から帰るのはなぜ」「昔はその日の気分で7番だったり十番だったりしたの。去年だったかしら。この喫茶店の前で車に乗込むおじいさんを見かけて何となくどこかでみた様な人だと思ったの。どうしても思い出せなくって、それからこの1年はいつもこの喫茶店の前を通って帰っていたの。時々乗込む所を見かける事があって、その都度思い出そうとしたんだけど。この夏頃におじいさんに古い写真を見せられてそれが廣川だと知らされて。多分別の写真だったと思うけど子供の頃に母が見ていた写真を覗込んだ時の記憶じゃないかと思うの」「ふうん。よし仕切り直しだ。サイコロ振るぞ」土岐は中腰になって傍らの窓を開けた。右の掌の中にサイコロを封込め軽く振る。カチカチと二つのサイコロが触合う音がする。窓外には兜町の闇だけが蠢いている。土岐は窓外の暗夜に向かって思いっきりサイコロを投げつけた。投げる手に打算に流されやすい自らの生き方を戒める思いも込められていた。サイコロが道路に落ちて微かにカチンカチンと軽く乾いた音が聞こえてくる。遠くから大通りを駆抜ける車の排気音が聞こえてくる。仁美は今走って来たかの様な荒い吐息を漏らしている。首を伸ばして土岐が投げつけた暗闇の方角に眼を凝らしている。冷たい夜気が窓から徐々に侵入してきた。土岐はぞくっとして徐に窓を閉じた。「どうサイコロの目を見に行くかい」仁美は黙って土岐の顔を凝視する。土岐も仁美の眼を凝視する。土岐の本心を教えてくれと訴えている眼だ。土岐は惑う思いを断切る様に自信ありげに言う。「僕はサイコロの目は偶数だと確信する。君はどう」仁美は黙っている。今にも泣きだしそうな目で土岐の次の言葉を待っている。もっと仁美を焦らしてみようかと仁美の潤みかけた眼を覗込み乍土岐は言う。「自分の運命のサイコロの目は自分で造るものだ。相手や周囲に流されていたらきっと後悔する。自分の選んだ道の結果がどうであれ自分で選んだ事に意味がある。自分で選んだ事に責任を持てばたとえ結果がどうなろうと後悔する事は絶対にあり得ない。君も偶数だと思う?」仁美の瞳孔が激しく揺れている。土岐は身を乗出して仁美の肩に手を置いた。「どう?偶数だと思う」仁美は肩に置かれた土岐の手の温もりに促される様に小さく頷いた。セミロングの髪が頬を覆う。土岐は仁美の肩を軽く揺すった。「それじゃ、この封筒をおじいさんに届けてくれ」土岐は百万円の入った封筒を仁美の目の前に置いた。仁美はその封筒の上に目を落とす。土岐はテーブルの上に眼を伏せている仁美の黒髪に声をかけた。「君がこれ迄恋人を作らなかった理由はおばあさんとお母さんが認知症だったからじゃないの?自分もそうなると思込んでるんじゃないの?君は相手の人生を不幸にしてはいけないと勝手に思込んでる。しかしおばあさんとお母さんが認知症である事が知れた時に相手の男に捨てられる事を恐れてる自分を認めようとしてない。認知症になるとしても五十を過ぎてからでしょ?そうならないかも知れない。二十年も三十年も愛情を育めばたとえそうなったとしても恐れる事はないじゃないか。かりにお母さんの認知症の事を知ってその男が逃げて行ったとしてもそれはそれでいいじゃないか。そんな男は本当に君を愛してるとは言えない。寧ろその事がリトマス試験紙になるじゃないか。相手の男の本心を知りたければおばあさんとお母さんの話をすればいい。君を本当に愛してない男なら尻尾を巻いて逃げて行く。少なくとも僕は逃げて行かないけど。僕は君の認知症も愛したい」そう言い乍土岐は身を乗出して仁美が座席の横に置いた大きなリボンのついたバッグの中に百万円の入った封筒をしまってやった。甘酸っぱい沈黙が流れた。俯いている仁美の眼の真下辺りのテーブルの上に間欠的に熱い滴が落ちてきた。滴はテーブルの上に落ちると室内を漂う僅かな明りの全てを吸取って思いのたけを話したげにきらきらと輝く。仁美は下を向いた儘、薄いアイボリーのレースのハンカチを取出して瞼を閉じ、涙を押しだす様にして眼の辺りを拭う。込上げてくる様なグスンという鼻音がハンカチの中でくぐもる。涙声を堪えて仁美が言った。「私もお願いがあるの」仁美は俯いた儘ハンカチをテーブルの上に置き珈琲に砂糖とクリームを落としてスプーンで小さな円を描いている。時々スプーンがカップの縁に触れて仁美が言いだすのを励ます様な音がする。土岐には歳の差以上に仁美が可愛く見える。「何?」と土岐は身を正して嬉しそうに聞く。前髪で隠れている仁美の顔を顎の下に手を差し伸べて見つめたい衝動に駆られる。土岐は仁美の前髪に軽く手を触れた。そうされる儘、甘えたい戸惑いを隠して仁美は呟く様に言う。「私とミックス組んでくれない」「勿論」と優しく言い乍土岐はスプーンを持つ仁美の手をとって強く握締めた。「さあ笑って。口を横に引くだけでいい。顔は心を映し出す。相手の笑顔を見たければ自分も笑顔を見せないと。相手の笑顔で自分の心も笑顔になる。その自分の笑顔が、更に相手の笑顔を引出す。笑顔と笑顔の連鎖だ。2枚の鏡の様に相手の笑顔が自分の心に笑顔を映し出し、その笑顔がまた相手の心に笑顔を映し出す。そうやって無限の笑顔の連鎖が映し出される時、心の中が幸せで満ち溢れる」土岐は歯の浮く様な思いで自分の言葉に酔っていた。仁美の眼も土岐のせりふに酔っている様に見えた。背後から「お客さん、すいません。九時です。閉店です」と喫茶店の中年のウエイトレスが無粋に叫んだ。了

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」エピローグ1 nomanomaさん 2022/04/08
    07:12

    ■その晩土岐は痛飲した。二日酔いで翌日は一日中寝込んでいた。二日目になってようやく起出し加奈子にどういう報告書を書くべきか思案を始めた。午前十一時になって事務所のドアの郵便受けをチェックした。月曜日は郵便が少ない。チラシしか入っていなかった。チラシの中に郵便物でない茶封筒が紛れていた。封もされていないので中身をすぐ確認すると使い古した一万円札が百枚入っていた。その中に自殺を思い留まらせる事を目的とするNPOが寄付金集めに印刷したカードが挟まれていた。その薄いピンクの厚手のカードには命を大切にという印刷された文字があった。土岐は少し興奮して震える指で即座に海野に電話した。「一万円のバラ札が百枚、郵便受に投込まれてました。その中に警告で命を大切にというカードが入ってました。どういう意味だと思いますか」海野は暫く考えている様子だった。呼吸音が微かに聞こえてきた。「なる程そうきたか。警告と現金か」「どうします?拾得物として警察に届けますか」「ばかな!投込んできた奴がのこのこと警察に申出てくるか。そんな事が新聞ネタにでもなればそれを読んだ投込んだ奴が土岐というバカ者は命を大切にしていないと受取るだろう。どっちにしても古い札とカードの文字だけじゃ、長瀬と玉井迄辿る事はできんだろう」「じゃどうすんすか?受取れば共犯になるし、返せば何をされるか分らない」「マスコミにリークしないだけなら共犯にはならないだろう。百万は口止という事だ。取敢えず預かっておけ。共同事務所の設立資金とするのはどうだ」「分りました」「多分民事の方は示談で揉消す方針だろう。あの大野のねえちゃんがまたしゃしゃり出てくるかも知れん。あんたらが提訴したら裁判にかける前か裁判長の和解勧告が出る前に示談に持込もうとするだろう。長瀬が恐れているのはこの件が週刊誌やワイドショーのネタになる事だ。廣川の殺害以外、全てが時効の彼方とはいえ雑誌やテレビで取上げられた途端、長瀬の褒章は宙に消える。裁判で審理が行われてジャーナリズムに傍聴される事は避けたいはずだ。保険金の支払自体はUSライフ全体にとっては大した金額ではない。とすると一番割りを食うのは東京メトロという事になるのかな。USライフと殺人で示談が成立したとなれば賠償金請求を引込めるざるをえないだろう。だからといって東京メトロが遺族相手に廣川の自殺を立証して、賠償請求訴訟を起こす事は考えらない」「そうしょうね。そんな話聞いた事ないすね」そう相槌を打って電話を切った後、土岐は札束を事務机の抽斗の中に隠し鍵をかけた。これだけの現金を手にするのは久しぶりの事だった。午後四時になる迄ぼんやりとテレビを見ていた。これからどうするか考えたが思いが空回りするばかりで考えが纏らなかった。取敢えずテニスウエアに着替え午後四時すぎにラケットケースの中に百万円を入れて事務所を出た。朝方降っていた雨は止んでいた。用心の為折畳傘をラケットケースに忍ばせた。茅場署に着いたのは五時過ぎだった。受付で海野を呼出すと数分してつま楊枝を咥え玄関ロビーに出てきた。「ちょっと宜しいすか」と土岐が言うと海野は顎で外に出る様に指示した。署の建物の外に出ると「なんだ」と海野は振向きざまに鷹揚に言う。「ご相談が」「込入った話か」「例のカネの件で」「それじゃインサイダーに行くか。あんたこれから仁美とテニスやるんだろ」そう言われて土岐は頭をかき乍苦笑した。インサイダーのテーブルに着くと「このカネ仁美にあげていいすか」と土岐は切出した。「あんたが受取ったカネだ。どうしようとあんたの勝手だ。俺は関知しない」「すいません。共同事務所の設立資金は来年の四月迄になんとか用意します」「無理しなくてもいいよ。状況によっちゃ四月に設立できないかも知れん」海野は妙に優しい口ぶりだった。土岐にとっては初めて接する海野の優しさだった。その優しさを確かめる様に土岐は聞いた。「長田の件はどうするんすか」「どうするって」「大学生の目撃証言では廣川の転落に杖で止めを刺したとか」「あんな証言あてになるか。目撃証言は目撃者の心象でいか様にも変わる」「実行犯の金井はどうするんすか」「今更告発してもしょうがないだろ。一応やっこさんのアリバイはとった。廣川が轢死した例の時刻に金田と一緒に菊名の店舗にいたという事だ。金田も口裏を合わせてる。しかし菊名の店舗の事務員の話では午後5時に店舗を閉める迄金井は午後はずっといなかったという事だ。この証言をぶつけてみると金井は午後五時を過ぎてから事務員とすれ違いで店舗に入ったと言ってる。しかし向かいの中華料理店のバイトの話では5時以降は店舗は閉じられた儘だと言う。この証言に対して金井は店舗奥の6畳間で金田と二人で酒を飲んでたと言う。だから表の店舗は閉じた儘という事だ。金田の方は不在証明ではなく、存在証明が被疑者の金井の証言だ。金田が菊名の店舗にいたという存在証明がない。金田の自宅は東武東上線の志木にある。マンションの一室だが両隣りの主婦にもあたってみたが彼女らは金田が自宅にいたかどうか分らないと口を揃えて言う。ただ右隣のきゃぴきゃぴした主婦がその日の夕方買物帰りにマンションから出てくる女を見かたと言っている。その女は以前、金田の部屋から出てきた所を見かけた事があるそうだ。その日に見かけたのはマンションの玄関から出てきた所だが多分、それ迄金田の部屋にいたに違いないんじゃないかと言う。風体を聞くと加奈子を思わせる。金田と加奈子はなさぬ仲だから加奈子が合鍵を持っていて一人で金田のマンションにいて出てきた可能性もなくはない。しかしその時金田は自室にいたと見るのが自然だろう。この事を加奈子に雇われてる大日本興信所の澤田に確認したがやっこさん吐かない。三文探偵ごときが礼状をお持ちにならなければクライアントの秘密は守秘義務があるのでとほざきやがった。そこで金田が廣川殺害時刻に自宅にいたとすれば、金井のアリバイは崩れる。と同時に加奈子と金田の密会がばれる。金田は民子との離婚訴訟で不利になる。加奈子は廣川の遺産相続で不利になる。お前さんへの調査費用の支払が困難になるかも知れない。それでもお前さん、刑事告発するかい」「刑事告発しようと思うモチベーションはないんすが、何となくもやもやしたものが」「殺人犯を野放しにしていいのかってえ事か」「いや正義の味方を標榜する程清く正しい人生を生きてきたという訳じゃないんで。そんな事はおこがましくって露程も考えてないんすが」「じゃあなんだ」「後で僕や仁美に累が及ばないかと」「なんだ保身か」「保身と言われればそうかも。と言うかこの儘でいる事が最適な選択かどうか、良く分らないもので」「俺だって分りゃしない。そんな事は後になって分るものだ。その時々でしてしまった事がその人間にとってのその時の最適行動という事だ。人間はそういう風にできてる。その事が後になって不都合になっても過去を変える事はできない。その責任はどうしたってとらざるを得ない。それでいいじゃないか。かりに民事でその事が明らかになればマスコミが騒ぎだして警察が動きだす事になるかも知れない。しかしそれは俺が定年になった後の話だ。それでいいじゃないか。俺達がリスクを冒して柄にもなく正義の鉄槌を下す迄もないだろう。俺達は取るに足らん一般ピープルだ。ヒーローでも何でもない」海野は深い溜息を吐いた。土岐も暫く黙りこくった後、珈琲を一口飲むと思い出した様に話出した。「示談が成立しなかった場合、保険裁判の方はどうなるんしょうか」「加奈子はカネが欲しいんだから示談でカネが入ってくるんだったら応じるだろう。保険金は満額支払われるが訴訟費用の分担でもめる可能性があるかも知れない。示談となれば宇多弁護士は吹っかけてくるだろうしUSライフの背後の人間がジャーナリズムネタにしたくないと思っている事を知ればあの悪徳弁護士は相手の足元を見て示談がこじれる可能性がなくもない。万が一、裁判が始まったとしても保険屋の大野直子の切札は仁美の目撃証言だから仁美が証言を翻せばそれで終わりだ」「保険会社の上告はないしょうか」「どうかな。かりに二審に進むとしても、その頃には長瀬は紫綬褒章を受章してる。長瀬は新聞ネタにならない様に傍聴券をバイトでも雇って独占するかも知れない。他に目撃者がいたとしても、報道されなければ裁判には気付かないだろう。事件は日々起きてる。ジャーナリズムも古い事には興味を持たない。例の男子学生の目撃者は俺が抑込んでる。あの証言が使われると長田が実行犯になりかねない。それは仁美に入れ込んでるあんたの本意でなかろ。刑事告訴された場合、長田は未必の故意を問われるかも知れない。件の学生は廣川が、はっきりとではないが、何となく杖で突落とされた様に見えたと言ってる。かりに長田が廣川を救う為に伸ばした杖を引込めたとしても引込めた事自体が未必の故意になる。公序良俗からすれば長田には廣川を救う義務がある。長田はそれをしなかった。しかも長田が無二の親友であった三田の殺害を画策したと思込み片思いしていた平井圭子を闇金の力で奪去られた事に対する恨みという動機がある。担当の刑事や検事が金井を実行犯としてストーリーを描くか長田を実行犯としてストーリーを描くか、それ次第だが。ストーリーはいか様にも描ける。金井だって実行の直前で躊躇し思い留まった可能性だってある。押した事は押したがそこに逡巡があった。背中を押した相手が長田であれば転落しなかったかも知れない。廣川が転落したのは足の指がなくて踏ん張れなかったからだ。あるいは金井は長田を殺害しようとしていたのかも知れない。背後から押そうとした時に廣川が杖を落とし長田がそれを拾おうとして屈んだ。その弾みで押そうとした手が長田ではなく隣の廣川の背中を突いた。だから学生の証言によれば廣川は金井を確認して咄嗟になぜだという様な表情をした。廣川のその瞬間の思いは何で俺なんだ、殺すのは長田じゃないのかという事だったのかも知れない。何れにしてもその百万を返却しないならこの事件を荒立てると暗黙の約束違反になる。あんたの身に危険が及ぶかも知れん。我々と長瀬グループが相互に後ろめたいものを持ち乍、その重さの微妙なバランスを保ち乍、このまま忘れて行くのが現時点での最適行動ではないのか?尤もあんたにそういう事を超越する様なスパーヒーローの様な正義感でもあれば別だが。あんたはどうだか知らんが俺はそういう英雄的な行動とは縁を持たない心の世界でこれ迄生きてきた。警察官になったのは職業その物が善だから世渡りに便利だと思った程度の事だ。俺自身は自分で言うのもなんだが善ではない。そういう意味では本当は医者になりたかったのだが学力が言う事を聞いてくれなかった。俺にはもうこの事件を徹底的に解明しようという打算を超えた気力が残ってない。金井を自由に泳がせてる事についても耳垢が詰まっている程度にしか感じてない。害者の廣川にも寸毫の同情も感じてない。年も年だし奴のこれ迄やって来た事を調べてみたら自業自得以外の言葉が見つからん。何れにしても民事で勝てば廣川の遺産の一部が愛子に渡る。そうなれば彼女の老後は安泰だろう。仁美にもやっと人並みの青春が訪れるかも知れん」土岐は話を聞くだけで疲労困憊した。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月十日5 nomanomaさん 2022/04/08
    07:06

    「じゃ真実を話そう。昭和二十年七月末、上官の命令で三重海軍航空隊に急遽教官として赴任した。当時所属してたのは海軍の秘密機関で陸軍の中野学校と違ってその記録はどこにも残ってない。久邇政道少佐の特務機関だった。昭和十八年頃から日米の早期和平工作活動を行ってた。七月末頃ポツダム宣言の受諾は不可避的になってきてたので軍部の暴発を未然に防止するというのが新たな任務となってた。当時三重海軍航空隊では一部の若手士官が陸軍と結託して徹底抗戦を画策してるという情報が入って来た。それで急遽香良洲に着任する事になった。実際そうした動きを捉えたので謀議に加わるふりをし徹底抗戦の計画を潰しにかかった。三田は最年少のメンバーの一人だった。結局謀議の壊滅に成功した。三田はその後の軍法会議での訴追を恐れたのかあるいは謀議計画の破綻に絶望したのか。あれが自殺だとすれば動機はそんな所だろ。事故だとしてもグライダーは原形を留めない程に破損してたから原因は究明できなかった。もう少し時間をかければあるいは原因を解明できたかも知れないが終戦直後の大混乱でうやむやになってしまった。終戦の詔勅の後、首謀者だった竹前岬は皇居の方角を遙拝し浜辺で割腹自殺してる。そういう謀議のあった事を知ってる者は今殆どいない。廣川の死については何も知らん」土岐が床のアラベスク文様の絨毯に眼を落してぽつりと言った。「死人に口なしか。戦後の廣川との関係はどうなんすか」「廣川は陸軍と海軍の二重スパイだった。奴は戦後もその影を引摺ってた。俺と馬田と船井は和平工作をやってた関係でGHQから優遇を受け暫くの間久邇政道を頭目として防共の諜報活動をやってた。軍部の隠匿物資を久邇商会を通じて横流したが私的に遊興する為でなく、全て戦後の日本経済の基礎造りに活用した。廣川はダニみたいな奴だった。我々の活動を知って途中から参加してきた。奴は陸軍の隠匿物資を持込んできたので我々も奴を利用した。しかしそれが腐れ縁となった。我々は早々に怪しい活動からは足を洗ったが奴は総会屋の様な裏稼業を始めて我々をやんわりと脅す様な姿勢を見せた。我々は奴の影に怯え続けた。そんな折、長田某が突然現れた。学僧兵という小説を俺は読んでないが、どうもその長田と三田をモデルに書かれてるらしい。戦時中二人は兄弟以上の関係にあり小説の中で頻繁に手紙のやり取りをしてる。それが真実に近いとすれば三田が握った情報は長田に流れてる可能性がある。長田が三田を殺害したのは廣川だと信込んでいる事に廣川は怯えてた。小説の中の二人の関係が真実であるとすれば長田が廣川に復讐する事は十分に想像されたからだ。これは余談だが八十を過ぎた今でも二十代迄の記憶は鮮明だ。年を経る毎に直近の記憶は希薄になって行く。殺人の動機が六十年前にあるとしても何の不思議もない。廣川の死が殺人であるとすれば容疑者はその長田だろう。話はそれだけだ」俯いて聞いていた海野が長瀬の顔を見上げた。「そんな所でしょうかね。夜分失礼しました。先程申上げたマスコミへのリークについてはたとえ今のお話が真実の一部であったとしても廣川の轢死は自殺とせよという警視庁内部の天の声の出所が解明されてないので解明される迄はこちら側がこれ迄得た情報をどこかに漏らす予定です。井戸ポンプの呼水というやつで。マスコミにリークすればどこからか何らかの反応があるはずで。我々がもう少し納得できるその辺の真実をお話し頂ければいつでもストップしますので二、三日中に土岐さんの方に改めてご連絡下さい」と海野は席を立った。
    ■二人はその儘日本橋迄ぶらぶら歩き居酒屋株都に入った。土岐はテーブルに着くなり海野に喰ってかかる様に質問した。「長瀬から連絡があったらどう対処するんすか」「連絡なんぞありはしない。連絡したら疑惑を認める事になる。それに現金授受で解決し、それがばれたら俺は懲戒免職で定年間際で退職金も受取れない。そんな危ない橋は俺は渡らない」「なる程、どっちにしても共倒れという事すか。じゃあ長瀬はどうすると読んでるんすか」「まあ最悪の場合は口封じだが。あんたは兎も角俺を消したら警察が黙っちゃない。上が何を言って来ても現職を始末したら組織を抑える事はできない。同僚がやられて黙っていれば自分もやられる事を意味するからだ。やくざと同じさ。全力を挙げて摘発する。となるとあんただけ始末して俺に対する警告とするという方法も考えられる。それは長瀬が俺の反応をどう読んでるかに依存する。俺がビビると読めばあんたは危ない。俺があんたを同僚の様に考えてると読めばあんたを消す事を躊躇うだろう。しかし俺がすぐ定年で組織内で疎んじられ発言力もなく影響力もないと読めばあんたの始末を強行するかも知れない。だが長瀬は三田については実行犯だが廣川については金井が暴走した嫌いがない訳でない。実際には指示してない可能性もある。そうであるとすれば身に覚えのない事でマスコミにリークされ紫綬褒章を取上げられるというのも面白くないかも知れん」土岐はつまらなそうに言う。「褒章なんて人を殺して迄して欲しい物すかね」「あんたや俺の場合は全く手が届かないから欲しいとは思わんだろうがちょっと策を労せば手が届くとなればどうしても欲しいと思うもんじゃないか。今回の事件のもう一つの発端は平成十五年に褒章の一般推薦制度が始まった事にある。それ迄は政府の諮問委員を長くやってたとか公職についてたという経歴があると賞勲局の役人が勝手に推薦してくれてた。政府の諮問委員の手当なんか僅かな物だから御苦労さんという側面もあった。褒章の欲しい人からすれば安い手当でも諮問委員を率先してやりたいというモチベーションになる。最初に馬田が廣川の画策で久邇の推薦を受けて紫綬褒章を受章した。戦中戦後のスパイ行為や闇行為は調べたのかどうか知らんが結果的に不問に付された。馬田自身は公職を意図的に避けてきたという経緯がある。しかし自分と比較すると大した事のない財界人が政府委員を委嘱されたという経歴で受章している事を面白く思っていなかったのだろう。次に船井が同じ様に廣川が描いた絵図に従って久邇の推薦を受けて紫綬褒章を受章した。商売上箔がつくという思惑があったのかも知れない。そうなると長瀬も廣川に唆されて自分も受章して当然と思う様になった。久邇が推薦者となり既に受章した馬田と船井が賛同者となれば受章は間違いないと踏んだのだろう。しかしそこで長田が登場してその影に長瀬は怯えた。その怯えを玉井経由で金井が察知した」「どっちにしても海野さんのお蔭で高い枕で寝られなくなりました」「俺の読みではあんたの口を封じる為に連絡という形をとらない連絡があるはずだ。それはここ二、三日のお楽しみだ。どっちにしても外に出ない方がいいな。今頃玉井と長瀬が謀議してるはずだ。さっき迄尾行してた人間もこの店の前で消えた様だ」「しかし三田の同期の堀田は陸軍と決起する計画があった事は言ってなかった」と土岐は思い出した様に言うが名古屋の堀田に確認する意味が見出せない。「でも海野さんは、この事件の解明には余り積極的でないと感じてましたが」それを聞いて海野が自嘲気味に鼻先でクスリと笑う。「刑事の沽券という事もないが一応自分の推理の正しさを確認したかった。それだけだ。まだ多少もやもやは残るが。これ以上追及するとリスクの方が大きくなる。下積み刑事の長年の勘で何となくそう思う。実際にリスクに直面してからじゃ遅いんで若干手前で手を引かざるを得ない。それに」と海野は話を続ける。話のトーンがしんみりとしてきた。「盗人にも三分の理がある。犯罪者が犯罪を犯すのは必然だ。しかしその必然は本人の気質に根ざす物と環境の影響による物とがある。本人の気質による物は再犯の危険性が高いので絶対摘発しなければならない。しかし環境の影響による物であれば環境を変えてやれば再犯は起きない。少年犯罪の場合それが環境による物であれば犯罪の性格にもよるが厳罰に処すよりも環境を変えてやる事の方がいい場合もある。これが少年法の精神だ。婦女連続強姦殺人の場合は明らかに本人の気質による物だ。そういう遺伝子を背負って生れ出た本人の不幸もあるが無辜の被害者の不幸の方が遥かに甚大だから絶対に見逃す訳にはいかない。知能犯の場合は人間社会の利益は享受する一方でその社会の犠牲の下に己の利益のみを得ようとする。この犯罪も許せない。廣川はサイドビジネスの所得を殆ど申告してなかった。確定申告時の税理士印が長瀬で脱税規模も年間数百万程度だから税務署も見逃してた様だ。こういう気質は長女の民子が受継いだ様だ。彼女も不動産の競売物件で得た所得の何割かは税務申告してなかった様だ。しかし脱税規模は廣川と同程度だった事と長瀬の税理士印が確定申告書に押印されていた為税務調査が後回しにされ、今脱税で摘発しても過去の巨額脱税は既に時効になっている。気質的にこの父娘に共通しているのは他者との情感の交流のない事だ。民子も昔競売物件でひと儲けした時にその物件にまだ住んでいた債務者から文化包丁で切りつけられた事がある。一般人が持合せてる情感がない事が周囲の人間を苛立たせる様だ。常識的な好意を提供してもその反応や見返りがあの父娘には一切ない。つまり人の好意は全て受ける。しかしその好意に対する感謝もお返しも一切ない。むかつく奴という事だ」「それが殺害の動機になったという事すか」「全てではないが動機の一つになっていると俺は読んでいる。介護殺人の場合、犯人は介護すべき人間が身内にいなければ一生殺人犯にならずに人生を終えたはずだ。これはそういう環境が犯罪の原因となった可能性が七分程ある。実際の刑事裁判でもそうした情状は酌量される。廣川が殺人だとした場合、犯人は金井の可能性が高いが金井は在日四世で本人は在日三世と標榜してる様だが奴の曽祖父が関東大震災の朝鮮人狩りで虐殺されてる。祖父は朝鮮半島に帰る家がなくなって仕方なく川崎辺りに住んでた様だが戦前戦中戦後を通じて一貫して差別を被ってる。金井が殺人を犯したとすれば今回が初犯だ。これ迄格別の善行もしてないが犯歴もない。人間故のない差別を社会から受ければたとえ故のある差別であったとしても社会に対して反抗的になるもんだ。金井の弁護をする訳ではないが廣川は金井に対して非情だった。ある種の差別感情があったのかも知れない。汚い仕事は一から十迄金井にやらせた。その見返りはバイト代程度だった。今回の褒章ビジネスも元々のビジネスモデルを考えたのは金井だったがコネクションを紹介したのが廣川だったという理由で金井が受取った金銭は実費プラスバイト代程度だった。そんな廣川の下で金井が二十年近くもなぜ仕えたのか?理由は本人に聞かなければならんだろうが廣川は金井を目一杯こき使った。その鬱憤があの日の茅場町のホームで偶々爆発したとしか考えられない。どう見ても金井に計画性はない。俺は俺がもし金井だったらと考える。俺と金井は生れも育ちも違うが二十年間も仕えて利用され続けたら、ある日ある時ある状況で俺も金井と同じ行動をとる可能性を否定しきれない。俺には残された時間がない。これがまだ若い頃なら点数稼ぎで金井をしょっ引いただろうと思う。ある意味、俺はこの世界にはうんざりしてきてる。被告人に判決を言い渡す裁判官の顔を幾度も見てきたが、愛情豊かな裕福な家庭に生れ、この世の地獄を見る事もなく生きてきたお前に一体何が分かる、お前がホシと同じ境遇に生れ育った時、同じ状況に遭遇して同じ犯罪を犯さなかったと言い切れるかと、いつも思ってた。だからと言って金井が実行犯だという証拠を探そうとしない俺が正しいとは思ってない」

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月十日4 nomanomaさん 2022/04/08
    07:05

    「同時に廣川も同業の総会屋の情報をあんたに流したから、あんたもそこそこに総会屋を摘発して業績をあげた。ある意味で持ちつ持たれつだった。しかし廣川からの情報だと分かるとまずいから適当にお目溢しもした。その点は職務義務違反だろう。俺はそういう噂を昔署内で聞いた事があった。火のない所に煙は立たない。どんな悪事も九十九%隠した所で一%発覚すればそれ迄だ。だからあんたは定年退職後もボランティアで特暴連に協力する形で悪事が露見されない様にする必要があった。問題は長瀬が一般推薦で紫綬褒章を貰う画策をした事だ。久邇頼道を推薦人、馬田と船井を賛同者とした。本人に犯罪歴がなければ受章は間違いない。実際夏頃にほぼ内定してた。そこで登場したのが長田だ。廣川は長田を知ってる。知ってはいるが深い付合いはない。人生で出会った多くの人物の中の一人にすぎなかった。しかし長田の方は廣川が自分の孫娘仁美の母方の祖父ではないかという疑念を抱いていた。DNA鑑定をすれば一発で分かる事だが長田が廣川に打診した所、廣川にも何となく心当りがあった。愛子の写真を見せられて自分に何となく似てると思った。愛子と仁美が困窮してると聞かされて取敢えず水上の老人ホームから愛子を船橋法典の特養ホームに移動させる手配を船井を通じてとった。そのやりとりの中で長田と三田が極めて近い関係にあった事を聞かされた。具体的な事は塔頭哲斗の学僧兵にモデルとして描かれていると長田に言われて慌てて読んでみた。小説の中では三田と長田は一蓮托生の兄弟の様に描かれている。そうだとすると長田は三田を通じて廣川が二重スパイで終戦末期に海軍の隠匿物資を横領する計画を持っていた事を知っている可能性がある。長田の狙いは愛子への資金援助ではなく、廣川、長瀬、馬田を強請る事ではないのか。特に廣川からその話を聞かされた長瀬は紫綬褒章に内定していた事もあり長田の影に怯えた。これはかつて廣川が一部上場企業を総会屋として怯えさせた手法と同じだ。弱みがある相手は総会屋と聞いただけで、その影に怯え言いなりの賛助金をだす。長瀬も時効とはいえ三田殺害の疑惑と隠匿物資横領の疑惑が明るみに出れば褒章取消しとなる事に怯えた。金井はあんたから、その話を聞きつけた。長瀬に恩を売る絶好の機会と捉えたのだろう。廣川が居なくなれば廣川の利権を手にする事ができる。同時に長瀬、船井、馬田に恩を売って何らかの見返りを期待できる。更には民子と昵懇だった事から民子を通じて廣川の遺産を入手する事もできる。更には褒章の一般推薦ビジネスを独占できる。元々このビジネスを考えたのは金井だ。金井の知合いの不動産屋が紫綬褒章を受章したのがきっかけだ。張本という不動産屋だが人品骨柄の卑しい男で金井自身、金田にもらした。どうして高等小学校しか出てないあのひひ親父が受章できたのかと不思議に思った。調べてみたら平成十五年から褒章の一般推薦制度が始まった事を知った。張本の推薦人は十数年以上後援会長として資金的に援助してきた代議士だ。金井はゆくゆく、これはロットこそ少ないものの立派な商売になる事は間違いないと踏んだ。そこで廣川に話を持ちかけて廣川の顔を利用して褒章を受けてない財界人や芸能人に売込んだ。ついでに受章後の祝賀パーティと胸像の製作をセットにして、一件当たり数百万の利益を生出した。しかしこうしたビジネスモデルは全て廣川のコネクションを利用したもので、その結果金井自身は収益の半分以下の受取りで我慢させられた。金井は長田を殺すと見せかけて廣川を殺害した。あんたらは金井が長田を殺す所を誤って廣川を殺したと思ってた。長田が生きてる限り長瀬が恐れている影は消えない。所が事件後、数日たっても長田の方から何の連絡もない。という事は長瀬が恐れた影は幻影に過ぎなかったと思う様になった。冷静に考えてみるとここ二十年間以上にわたってダニの様に小ガネをせびり続けてきた廣川が死んだ事は長瀬にとっても船井にとっても馬田にとっても、ある意味で清々した所がある。そこで長瀬と船井と馬田が政界コネクションを使って廣川の死を自殺で処理させた。これには玉井さん、あんたも一枚かんでる。その処理で困るのは加奈子程度で他には何の影響もない。全ては丸く収まった。これが俺の推理だ。玉井さん何かコメントはありますか」玉井は静かに含笑いを始めた。「まあ想像するのは勝手だ。真実は一つかも知れないが当事者達の記憶も曖昧になってる。自殺の処理で殆ど誰も困らないのであればそれはそれでいいじゃないか」「それはそうだ。真実を追求しないと職務義務違反になる等と俺なんぞ言える立場じゃないし」と海野が言うと土岐が口を挟んだ。「僕も偉そうな事を言える立場ではありませんが、実行犯とされる金井はこの儘でいんすか?何となくすっきりしませんが」海野が土岐を横眼で見た。「金井をしょっ引いてゲロさせてどうする?奴は絶対吐かないぞ。吐いたら身の破滅だという事は分ってるし吐かなければ長瀬や馬田や船井から相応の見返りが期待できる。玉井さんも金井が吐かなければ、自分の手下の様な者だから、これ迄泥臭い仕事ばかりで多少割りを食ってきたが長瀬や馬田や船井に対して立場上よくなるし」不意に玉井が短い脚で立ちあがった。「話は以上か?俺としては何も言う事はない。まあ勝手に想像してくれ。とてつもない証拠がでてきたら俺に相談してくれ。悪い様にはしない。しかし今日程度の話では何らかの申出があったとしても全く応じられないな。今日は天気がよかったし散歩がてら須田町からやって来たが、まあその甲斐は余りなかったな。何れにしても海野刑事の賢明な判断に期待してるよ。それに来年定年退職だそうで、あてがわれた再就職先に満足してないなら相談に乗ってもいいぜ」そう言い乍玉井は事務室の蛍光灯を順に消し始めた。海野は土岐に目配せして部屋の外に出た。玉井を事務室に残して、土岐と海野はエレベータに乗った。エレベータが降下し始めてから海野が言った。「やっこさん俺達がどこへ行くか確認するはずだ。これから八丁堀に行く気力はあるか」「八丁堀?」「ウォーターフロントの超高級マンションだ」「長瀬すか」「そうだ。在宅は確認してある」土岐はエレベータを降りて海野に従った。ビルを見上げると八階の電気がぼんやりと付いていた。海野の読みが正しければあのブラインドの隙間から玉井が二人の行方を追っている筈だ。海野は上から見やすい様に歩道を車道寄りに歩いている。「多分金井かその仲間の様な奴が俺達を尾行する筈だ。後ろを振向くなよ」土岐は黙って海野の脇を歩いた。
    ■茅場町で日比谷線に乗換えて八丁堀に着いたのは七時前だった。駅を出て東京湾方面に歩いて行くと、ひと際目立つ高層マンションがあった。周囲に場違いな程こんもりとしたLED電飾内臓の植込みがあり、一階全体が煌々とした照明に照らし出されてホテルのロビーの様になっていた。エントランスの自動扉を入ると管理人兼警備員の受付があった。海野が窓口を覗込む様にして申出た。「十七階の4号室の長瀬さんをお願いします」そう言い乍警察手帳を見せていた。「ご訪問ですか」「そうです」「お名前は」「茅場署の海野と言います」「ご用件は」「内閣府賞勲局の依頼できました」警備員は聞き取れない。「内閣府の?」海野は繰返す。「内閣府賞勲局です」「少々お待ち下さい」と言って警備員は17階の4号室に電話をかけ海野の用件を復唱する。暫くやりとりがあり「どうぞ、お会いになるそうです」そう言うとエレベータホールへの扉が開いた。黒い大理石が一面に埋込まれていた。間接照明で足元と天井だけが明るい。土岐と海野の姿が鏡の様な床や壁に亡霊の様に映出されている。海野はエレベータの上昇ボタンを押した。「これだけ警備がしっかりしていれば外から暴漢に押込まれる事もないだろう」踏込んだエレベータの箱に揺られ乍、海野は溜息を吐いた。土岐は豪勢な雰囲気に圧倒されている。「私は、どうしてればいいんすか」「マスコミ関係という事で話を合わせてくれ」「マスコミ関係?」「そっちの方の担当という事だ。イメージとしては雑誌のトップ屋かな」土岐には意味がよく分らない。海野は身震いしている。「どうもすっきりしないな。何となく胸の座り心地が悪い」17階はペントハウスだった。吹曝しのエレベータの出口から右手の東京湾をとり囲む夜景と左手の銀座の夜景が一望できた。髪を乱す風が土岐の襟元を掠めた。4号室はエレベータを出て外廊下を左に進んだ右奥にあった。手摺はあるものの道路を走る自動車が豆粒の様で高所の恐怖に足元が僅かに竦んだ。海野がアルコープ奥の黒いインターフォンを押した。「どうぞあいてます」と言う落着いたしわがれ声が聞こえた。海野はドアを引いた。玄関は三畳間程の広さがあった。エントランスと同じ黒い大理石が嵌込まれていた。靴箱の下に間接照明があり足元が異様に明るく感じられた。廊下の奥の照明を背に受けて老齢の男がホームウエアの上にガウンを着てムートンのスリッパをはき両手をガウンのポケットに突込んで仁王立ちになっていた。「茅場署の海野さん」「そうです。長瀬さんですね」「そうだがそちらの方は」と長瀬が土岐に視線を向ける。「土岐と申します」と言い乍、土岐は名刺を出した。長瀬は受取ったが見ようとしない。その儘ガウンのポケットにしまった。右手のドアを開けて入って行く。「どうぞ」土岐と海野は靴を脱いで十センチ程の高さの上框に足をかけた。長瀬と同じムートンのスリッパが用意されていた。通された応接間は十二畳程の広さがあった。壁一面に百科事典や文学全集が綺麗に並べられていた。書物としてよりも装飾として置かれている配慮が感じられた。全員が本革の黒いソファに腰を下ろすと長瀬が徐に口を開いた。「内閣府賞勲局からどういう依頼で」「身辺調査です」と海野が長瀬の顔色を窺い乍言う。「それはもう終わったはずだが」「追加調査です」「内閣府賞勲局からは今年の夏の初め頃だったか紫綬褒章に内定したが受諾するかという様な連絡があったが。それでもう終わりではないのか」「それは存じてます。新たな件で」「どんな」と言い乍長瀬がテーブルの上のシガレットケースの蓋をあける。洋モクがケース一杯に並んでいる。長瀬は卓上ライターで火をつけた。煙の臭いが土岐の鼻腔を刺した。その紫煙をちらりと眺め乍海野が言う。「廣川殺害への関与の疑いです」「何の事か知らないな」「いやあ廣川はご存じの筈です」「知ってはいるが自殺じゃなかったのか」「金井が実行犯です。長瀬さんが金井に廣川殺害を指示したという疑惑です」「金井とかいう人間は知らない」「直接は御存じではないかも知れないが玉井に廣川殺害を指示し、玉井が金井に指示した」「何の事だか分らん」と長瀬は軽く吸った煙草を深く吸込まず煙を吐出さずに口を開けた儘で煙が勝手に口蓋から出て行くのに任せている。八十歳過ぎにしては顔の色艶がいい。その落着きぶりが演技なのかどうか土岐には読めない。海野は話を変えた。「最近、殺人の時効が撤廃されまして法務省の諮問委員会から、それを更に改正する答申が出される予定です。しかもその時効撤廃の適用は過去の殺人にも及ぶという内容で」「ばかな。それは憲法上あり得ない。新法や改正法は過去には遡及して適用しないのが原則だ。過去の殺人にも及ぶと言っているのはまだ時効を迎えていない事案についてのみだ。それだってまだ解釈が分かれてる。改正法を適用して裁判になれば間違いなく弁護士は控訴審でそれを持出すはずだ」海野がしたり顔でソファに座り直して深く腰掛けた。「良くご存じで。じゃマスコミにリークするというのはいかがですか」「言っている意味が良く分らん。所轄の警察が既に処理した事案について廣川の自殺の処理が誤りで本当は他殺だったとリークする事はありえんだろう」「勿論です。この土岐さんが民間調査機関の立場でリークできます」長瀬が小さくなって畏まっている土岐を睨みつけた。「だからどうしろと言うんだ?カネか?カネを要求すれば恐喝になる。二人共私が告発すれば逮捕される」海野が右手の平を自分の鼻先で激しく左右に振った。「とんでもない。カネなんか要求しないですよ。ただ真実が知りたいだけで」「だから知らないと言ってる」「三田法蔵の件はどうです?なぜ彼を殺害したんですか」「あれは事故だ。かりに誰かが殺害したにしても六十年以上前の話だ。しかも刑法ではなく軍法の対象となるべき物だ。だが帝国海軍は既に解体してる」「それは承知してます。真実をお話し願えないのであればこちらの土岐さん経由でマスコミにリークしてお話を引出すという方法もあります」「それは名誉棄損になるぞ」「真実であれば名誉棄損にはならんでしょう。かりに名誉棄損で告訴されるという事であれば裁判を通じて真実が明らかになるでしょ」長瀬がポケットにしまった土岐の名刺を取出して見た。それから徐に細かい縦皺の入りかけてきた口を開いた。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月十日3 nomanomaさん 2022/04/08
    07:03

    ■船橋法典の改札口からホームへの広い階段を下りている時に携帯電話が鳴った。海野からだった。「五時大手町に来られるか」時計を見ると四時を過ぎた所だった。「丁度五時に着くと思います」「船井ビルの前で五時頃どうだ」「行けると思います」「待ってる」海野からの電話は初めてだった。昨日電子メールで海野に送信した調査報告書を海野が読んで新展開があったのかも知れない。西船橋で東西線に乗換え大手町迄土岐は頭痛に悩まされた。二日酔がまだ完全には抜けきっていなかった。大手町に着いたのは五時丁度だった。船井ビル迄五分あれば十分だった。黄昏時の大手町のビル街の狭い路地に海野が煙草を燻らせ乍待っていた。「おう丁度五時五分だ」「今日は何すか」「ちょっと八階の玉井企画迄付合ってくれ。例の調査報告書読ませてもらった。素人にしてはよく調べてある。民間でしかもたった一人じゃあれが限界だろな。ここんとこつまらん捜査に駆出されて漸く一昨日解放されたばかりだ。お前さんの調査もあってこの事件の全体像がようやく朧げ乍見えてきた。今晩大体決着がつく」古いエレベータに乗った。天井が低い。動いているのかどうかよく分らない程遅い。ワイヤーの微かな軋み音で動いているのが辛うじて分かる。八階で少しリバウンドして停止した。廊下は真暗だった。神田方向の遥か遠くのネオンサインが上空数千メートルを夜間飛行する飛行機のライトの様に小さく点滅しているのが廊下の窓から微かに見える。海野が舌打ちした。「まだ来てないか」「玉井すか」「そうだ」暗くて海野の表情が分らない。腹の底から出てくる声が何となく不気味だ。土岐はじっと黙っていられない様な不安な思いに駆られた。「今日は土曜で休みなんじゃないすか」「呼出した」「どういう名目で」「任意の事情聴取」「でも廣川の件は自殺で処理されたんじゃないすか」「それはそれ、再捜査という名目だ。参考迄にと言ってある。奴もこっちの手の内を知りたいはずだ」「私が同席してていいんすか」「同僚という事でお願いする。刑事は基本的に二人で行動する事になってる。脇にいてくれるだけでいい。尋問は俺がやる」「こんな所で事情聴取するんすか」「任意だから別に署でやらなければならんという法律はない。玉井がここを指定してきた。こっちは署でもいいんだが、やっこさん、顔見知りでもいると嫌だという事じゃないのか。確かに署の取調室は取調べる方だって息が詰まる様な鬱陶しい部屋だ」土岐は海野が聞いてこないので自分の方から話した。「仁美は偽証であった事を民事で吐露してくれると思います。それに現場に廣川と一緒にいたもう一人の老人は長田で彼も事件が殺人である事証言してくれると思います」「確かか?マスコミが注目しなけりゃいいが。注目される様であれば厄介な事になる。どっちにしても示談にせざるをえなくなるだろう。結審迄行かせて貰えない筈だ。いざとなれば双方の弁護士にも、その筋から手が回る筈だ」その時八階に停止していたエレベータが下降し始める音がした。やがて一階で停止し再び上昇を始めた。「来たな。じゃ宜しく。聞きたい事があれば話してもいいが俺の同僚だという事を忘れないでくれ。相手は元プロの刑事だからな気をつけて」エレベータが止まり中からずんぐりむっくりした小柄な男が出てきた。160センチあるかどうかという背丈だ。エレベータ内の照明が光背になって男の顔が見えない。辛うじて黒縁眼鏡をかけている事だけが分かった。「海野さんかい」「そうです。どうもお休みの所ご足労かけます。吉野さんからお噂はかねがね伺っております」「そっちの若いのは」土岐は海野の顔を見た。どう答えていいか分らない。海野が代わりに答えた。「相棒で土岐と言います」「そうかい。まあ中で話そう」そう言って玉井はポケットから鍵の束を取出した。鍵を選り出してドアを開ける。すぐに室内の照明が灯された。入るとすぐ上半分がすり硝子のパーティションがあり、その奥に四人がけの簡単な応接セットがあった。ソファに腰を下ろすと玉井はすぐ聞いてきた。「で、どういう情報」海野は内ポケットから例の似顔絵を出してテーブルの上に広げた。玉井は徐に背を屈め眼鏡を外して似顔絵に見入った。それからぽつりと言う。「何これ」「ご存じでしょ?金井泰蔵ですよ」海野にそう言われて土岐は田園調布駅前の喫茶店で澤田に見せられたゴルフ場での金井、民子、金田のスリーショットのデジタル画像を思い出した。土岐の記憶にある画像の中の金井と似顔絵が重なり合った。玉井はもう一度似顔絵を胡散臭そうに見直す。「そう言われればそう見えない事もないがこんなもの証拠能力ないよ。これがどうしたの」「目撃されてるんです。廣川の殺害現場で」「殺害現場?あれは自殺で落着してるんだろ」「署内的にはそう処理されてますが民事では殺人という事になるかもしれません」「佐藤加奈子か」と玉井は民事で訴訟を起こそうとしている人物の名前を言った。海野が答える。「そうです」玉井は両手を頭の後ろで組みソファに凭れ天井を見る。絡めた太い指が今にも外れそうだ。白い鼻毛がよく見える。「民事でもUSライフに勝てないだろう。いや法廷外の圧力で勝たせて貰えないだろう。まあ佐藤加奈子も提訴すれば何れしなかった方がよかったと思い知る筈だ」土岐が口を挟んだ。「四十年前廣川が総会屋活動の表舞台から引込んだのはなぜすか」玉井が声の方を向いて目を剥いた。しょぼついていた目が大きく見開かれた。「あいつは自力では何もしてなかったんだ。財務諸表位は勉強した様だったがインサイダー情報は貰っていた。奴が派手な活躍をしてしょっぴかれると当然情報を提供した方にも類が及ぶ。それを恐れて奴に表舞台から手を引かせた。そのかわり、たんまりとはいかないがそれなりの金づるが提供された。雑誌広告がメインだった。一社当たりの金額はたいした事はないが上場企業百社位を紹介した」「長瀬と船井と馬田が紹介したんすか」「それ知ってどうする。インサイダー取引は時効だし雑誌広告はまっとうな商取引だ」「廣川の殺害は時効にはなってないしょう」と土岐が突込む。玉井は憮然とした表情で返答する。「殺害じゃない。自殺で処理されてる」「証拠さえ上がればいつでも殺人で立件されるしょう」「証拠はない」と玉井が怒気を込めて断言する。海野が脇からそれを宥める様に言う。「これは仄聞だが、コメントがあればコメントして貰いたい。多少俺の推理と脚色も混ざってる。まず廣川は陸軍中野学校の出身だ。これは証拠も証言もある。戦時中アメリカの牧師と和平工作をしてた京都の清和家に書生として潜込み本土徹底抗戦を考えている陸軍の方針に従って和平工作の妨害を画策していた。ここ迄はよくある話だ。こうした類の戦中秘話はごろごろ転がってる。ここからがどこ迄が本当で嘘で単なる噂なのか分らないが廣川が二重スパイだったという事だ。最初は陸軍のスパイとして養成されたが後に海軍のスパイにもなった。つうか海軍のスパイに協力する様になった。海軍は陸軍中野学校に対抗して久邇政道少佐をトップに据えて同じ様な秘密諜報員養成組織を作った。太平洋戦争に突入してからの話だ。それ迄はスパイは武士道に反するとか大和魂にそぐわないとかいう理由でそうした本格的な諜報機関は造らなかったが太平洋戦争に突入するに至って綺麗事をいえなくなった。そこで長瀬が経理学校から、船井が機関学校から、馬田が兵学校から引抜かれた。他にも何人かいた様だが戦死したか物故してる。海軍の戦略は早期和平にあった。元々海軍は山本五十六を筆頭に日米開戦には反対だった。傷が深くならない内に和平を結び戦後の復興にかけるというのが海軍の方針だった。そこで日米和平工作を民間レベルで画策してた京都の清和家と東京の久邇家を支援した。両家の間で重要な役割を果たしてたのが廣川だった。その内海軍は廣川を長瀬、船井、馬田を補佐するスパイとして利用する事を考えた。ただ廣川が中野学校出身である事を知ってたので裏切らない様に目付を置く必要があった。そこで当時家庭教師として清和家に出入りしてた三田に廣川が中野出身である事を伏せて監視を依頼した。この時三田に会って直接依頼したのが長瀬だ。その時長瀬は交換条件として難関の甲種飛行予備練習生への応募を考えていた三田に合格を確約した。三田は廣川が二重スパイである事を見破った。昭和十九年に入って日本の敗戦は決定的になった。長瀬と船井と馬田は敗戦後の身の振り方を考えた。幸い諜報活動の資金として海軍の隠匿物資の所在を知らされてた。燃料、軽金属、銅、米、味噌、醤油、色々あったが少人数でも横領可能なダイヤモンドや貴金属や骨董品に目を付けた。それらを隠匿物資とは明かさずに捌く為に久邇政道が久邇商会を設立した。隠匿物資は昭和十九年三月に海軍に接収された慶応の日吉校舎の裏手の蝮谷の地下壕に隠されてた。終戦間際のどさくさに巨額の隠匿物資を横領し、自分達の力で戦後の日本の経済社会を立直そうと計画を立て、この計画に廣川と三田を引入れようとした。廣川は応諾し三田の説得を任されたが三田は拒否した。三田は長瀬に隠匿物資は天皇陛下の赤子たる国民全員に等しく配分されるべき物だと言った様だ。それを聞いた馬田は後に長瀬に国民全員で分配したら復興の原資になりようがないと主張し、仲間の数人で分ける事を正当化した。一億円を一億人で分配すれば一人当りたった一円にしかならない。しかしこの一億円を唯一人の経営者に託せば企業を興し、やがて数千人数万人の雇用を生出し、それが数千万人に波及し何れは数兆円の所得を生出すと仲間に説いた。この話は馬田の自伝に出てくる。もっとも隠匿物資を横領したとは書いてはいないが。長瀬に依頼された三田の説得に失敗した廣川は三田の抹殺を画策する。理由は三つあった。一つは二重スパイである事を知られてる事。二つ目は隠匿物資の横領計画を知られてしまった事。三つ目は一目惚れした平井圭子が三田を愛してた事。二重スパイである事がばれれば廣川は中野学校の連中に粛清される。廣川はどうしても三田を抹殺する必要があった。そこで長瀬達に秘密を知ってて共謀に参加しない三田の抹殺を依頼した。海軍の諜報機関は秘密保持のため長瀬を教官として三重海軍航空隊に赴任させた。そこで事故を装って三田を終戦前日に殺害した。死亡の状況に疑念を抱いた上官もいた様だが終戦の混乱でうやむやになった。それから長瀬、船井、馬田、廣川らの海軍隠匿物資の横領が行われた。久邇政道は久邇商会を通してそれらを捌いた。長瀬は終戦の日香良洲にいたので横領の実行部隊は船井、馬田、廣川の三人だった。遅れて駆付けた長瀬は骨董的な隠匿物資を割当てられ、わりを食った。一番分前の多かったのが馬田で、兵学校で学んだ英語力を生かし八紘物産の中興の祖となった。社長就任当時、政府から様々な諮問委員会等の委員就任を打診されたが悉く断った。この事は新聞に連載した馬田の自伝によれば在野の経営者として政府に警鐘を鳴らす意味からも政府とは一線を画すとジャーナリズムからは称賛された様だが俺の考えでは馬田は叙勲の対象となる事を避けたんだ。実際経済団体の中でも重要な役職に就く事をしなかった。政府の各種委員会の委員ともなれば何れ政府の方で叙勲か褒章の対象としてくれる。そうなれば身辺調査が行われる。隠匿物資の横領はとっくに時効だし、戦後のどさくさに紛れたもので戦後名を成した多くの実業家が何らかの形でそれと似た様な危ない橋を渡ってる。馬田が恐れたのは廣川との関係だ。馬田は海外賄賂の裏金作りの為に廣川を利用した。八紘物産の取引先や関連会社のインサイダー情報を廣川に流し表立たない形で企業から資金を集めさせた。長瀬も監査法人の代表社員の立場で入手したインサイダー情報を情報源がばれない様に廣川に流し儲けさせた。廣川が他の総会屋の様に名前を売った上で株主総会に出席し資金を集めるという表立った活動をせずに賛助金や広告協力費を集金できたのはこの為だ。船井はそのカネで衆議院議員に立候補し票を買収し当選したものの元々政治的な野心も理想もなかったので建築土木利権でカネを儲ける事に方針を転換して昭和三二年の総選挙で落選したのを機に政界人脈を利用して口利き利権に奔走し、そうした利権に群がって来たゼネコンの賄賂情報を廣川に流し、廣川が総会屋活動をしないでゼネコンから資金を調達する便宜を図った。こうしたカネのなる木もバブル崩壊と商法改正による総会屋取締強化で尻すぼみとなった。全ては時効の壁の向こうの話だ。そこで玉井さん、あんたの役割は取締まる側の情報を廣川に流す事だった」俯いて聞いていた玉井が顔をあげて海野を見上げた。海野は話を続ける。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月十日2 nomanomaさん 2022/04/08
    07:02

    「前々から愛子は廣川の娘ではないかという気がしてた。愛子の存在は法蔵寺の住職から聞いてた。その住職は先代の長男で、わしが中学校に入る時に使い古しの靴をくれた男だ。先代は法蔵さんと圭子さんを一緒にさせて法蔵寺を継がせようと思っていたので、息子の住職は法蔵さんの死を喜んだくちだ。その住職が宗門の東京での会合に来た時廣川に嫁いだ妹の圭子さんに世話になったそうだ。その時廣川が向島につれて行き、お座敷に和子を呼んだそうだ。その後、住職は東京に遊びに行く度に一人の時でも向島で遊ぶ様になり、その都度和子をお座敷に呼んだ。そこで和子には愛子という私生児のいる事を知った。和子は愛子の様な私生児でも貰ってくれる様な結婚相手はいないかと酒の席ではあるが住職に頼んだ。わしが法蔵寺に骨董の行商で寄った時にその話が出た。わしはできの悪い息子の敦の嫁にどうかと持ちかけた。その時にはもうわしは花江とは離婚していたが敦の事は気になってたんで糸魚川の時計屋を任せてた。しかし敦は店の商品を持出して質入れして駅前でパチンコやったりマージャンの負けを支払ってた。幾度注意しても改まらなかった。糸魚川では放蕩息子の悪名が広まってて結婚相手等見つからなかった。そこで愛子と東京で所帯を持たせ、まっとうな生活をさせようと考えた。愛子にしてはいい迷惑だったかも知れないが、お互いにいわくつきであれば案外うまく行くかも知れないと安易に考えてた。しかし不幸と不幸は足し合わせた所で不幸にしかならなかった。敦はパチンコ店員や新聞配達や牛乳配達やクリーニング店員や日雇い労務者の職を転々として賭事から足を洗えなかった。東京に行商に行く度に愛子に謝り小遣をやったがそれも敦に巻上げられた様だ。愛子はその内、わしと顔を合わせると懇願する様にどうしても敦と離婚させてほしいと言出す様になった。しかし仁美が既に生れてた。わしは敦の事で迷惑をかけて申訳ないが仁美が成人する迄は我慢してくれと頼んだが駄目だった。それでも愛子は敦と別れる際に女手がないと敦の生活が大変だろうと嫌がる仁美を敦に残して家を出て行った。仁美は愛子を恨んだ事だろうと思う。敦は放蕩無頼の人生を貫徹しさっさと死んで行った。それから母子二人のささやかな幸せの生活が始まったが愛子は和子からの遺伝なのか仁美との蟠りが解け始めた頃若年性痴呆になった。安い特養を探したが群馬県の水上の山奥にしか適当なホームは見つからなかった。それでも仁美にとっては経済的に重い負担だった。わしも援助したい所だったが僅かな年金しかない。そこで愛子が後生大事に持っていた和子と廣川が向島のお座敷で撮った写真を思い出した。愛子が廣川の娘であれば仁美は孫になる。廣川はわしより遥かに経済力はある。娘と孫の窮状を助けてもばちは当たらない。その写真を仁美に確認させたら兜町の路上で毎日夕方の五時頃にレクサスを待たせている老人に似てると言うのでそこの会社が開示情報という雑誌を発行し、その会社の会長が廣川である事を確かめてあの日茅場町で会う事にした」土岐は長田の話を聞き乍、喫茶店インサイダーでの岡川の証言を思い出していた。「廣川が船橋法典の特養ホームを見つけたので地元の責任者に挨拶に行くので仁美と三人で一緒に行こうと言うのであの駅のホームで仁美を待ってた。仁美が来る直前にあの事故が起きた。廣川がステッキを落とし、わしが拾って廣川に渡そうとした時背後から低姿勢で突込んでくる男がいた。わしと廣川の間に割込む様にして倒込んできた。わしは咄嗟に避けたが廣川は男の肩にぶつかった。廣川はわしが差出したステッキに手を伸ばしてきたがわしはステッキを差出そうとしなかった。未必の故意というやつだ。廣川はホームに踏張り切れずに転落した。その時仁美はまだ来てなかった」そこで土岐は内ポケットの手帳に挟みこんだ海野から受取った似顔絵を出した。四つに折り畳んだB5の紙を広げ乍長田に聞いた。「その倒込んできた男はこんな顔したか」長田はその紙を受取り目を顰め乍距離を調整し、目の焦点を合わせようとしている。「一瞬の事だが多分こんな感じの男だったと思う。そう言われれば、そうかもしれないと言う程度だ。ただ廣川がその男を見たとき一瞬の事だが、まさかという様な顔つきをした。そんな感じがした」「という事は顔見知りで」「分らん。でもそうかもしれない」「で長田さんが現場から逃走したのは、どうしてすか」「倒込んできた男がわしを殺そうとしていたのではないかと直感的に思った。そうでなくても廣川についてはいい噂を聞いてない。やくざとも関係があるという様な事も聞いてた。わしが愛子をネタに強請ろうとしてると思込んでわしを消そうとするかもしれないという邪推が頭を掠めていた。その恐怖でまず逃げた。仁美と待合わせていたので戻ろうかとも考えたが巻込まれたくなかった。わしも叩けば幾らでも埃の出る人生を生きてきた。警察とは関合いになりたくない。いまだに所得税を払った事がないし詐欺紛いの骨董売りを幾度も繰返してる。訴えられた事もある。貴金属品の行商でも紛い物を幾つも売捌いている。そのせいもあって京都へも湯沢へも小谷へも足を踏入れられなくなった。商売をする場所が段々狭まって行った。そういう負い目から仁美に電話したものの現場に戻る気はなかった。どんな形であれ警察とは関りをもちたくなかった。その後、あの事件は自殺で処理されて落着いたと言うので、こうして愛子に会いに来た」「廣川の他に誰かに殺されるかも知れないという心当たりはありますか」「ない。わしは馬の骨だ。長瀬や廣川の様に稼いでもないし、一度でも表舞台に出た事もない。しがない骨董商で昔は貴金属の行商もやってたがここ二十年程は全く商売にならない。バブルがはじけた後、年金でかつかつの生活をしてる。こんな老いぼれを殺した所で一銭の得にもならんだろう。わしの人生はとるに足らないつまらん人生だった。あってもなくてもいい様な人生だった」「あの時廣川を助けようとしなかったのはなぜす」「圭子さんが自殺した事が頭のどこかにあったのかも知れない。彼女は法蔵さんを愛してた。わしもそうだった。戦後、小ガネを貯めて法蔵寺に行った時には既に廣川と結婚した後だった。それに戦後間もなく誰からか噂を聞いて上野で露天商をしてた廣川に会いに行った事があったが剣もほろろだった。元々智恩寺にいた時ちらりと見た程度の間柄だったが廣川には打解けようという姿勢が全く見られなかった。何人かで一緒に酒を飲んだ時、岩波文庫を持ってたので文学好きだと思って、郷里の相馬御風の話をちょっとしてやった事があった。その時何となくそりの合わない奴だと感じていた。寧ろわしを避けようとしてる様にも見えた。法蔵寺の先代住職の法事の時でもそうだった。殆ど口をきく事がなかった。そうした蟠りはなくなってなかった。愛子をなんとかしようという思いはそれとなく伝わってくる事もあったが、わしに対しては赤の他人でいたかった様だ」「最近になって、廣川が塔頭哲斗の学僧兵を読んだらしいんすが、どうしてすか」「わしが教えたんだ。あの小説ではわしと法蔵さんがモデルになってる。舘鉄人とは智恩寺にいた頃知合った。妙にウマがあった。小説ではわしと法蔵さんの関係が実際以上に濃密に描かれてる。実際はわしの方が一方的に法蔵さんを崇拝してたんで法蔵さんはわしに対しては弟弟子という思い以上のものではなかったと思う。九月初めに廣川に連絡したらわしの事をよく覚えてなかった様なので、戦後智恩寺と上野で顔合わせた事がある、法蔵寺の先代住職の法事でも挨拶した事があると言っても思い出さない様なので舘鉄人の学僧兵という小説を読んだ事があるかと聞いたらにべもなく、そんな物読んでないと吐捨てる様に言うので、わしと法蔵さんがその小説のモデルになってると伝えた。再び顔合わせた時廣川はわしの事を多少思い出した様だった。舘鉄人の小説については愛子が実の娘であればひょっとしたら親戚になるかも知れないと思って読んだんじゃないか」長田は疲切った様だった。体が次第にずり落ちてきて車椅子から下半身が落ちかけている。その体を自分で元に引上げる体力もない様だった。土岐は長田の背中に回り両手を脇の下に差込んで体を引上げてやった。長田は軟体動物の様に車椅子の上で背中を丸めた。土岐は車椅子を押して愛子の部屋に戻った。愛子の部屋では仁美が土岐が持ってきた生花を花瓶に活けていた。愛子はベッドの上で昼寝していた。微かな鼾が部屋の中に流れていた。長田も疲切った様で口を開けた儘茫然としている。土岐は仁美の壊れそうな背中に語りかけた。「今おじいさんに全て聞きました。あなたには何れ民事の法廷で証言してもらう事になると思います。あなたが偽証したい気持ちは僕なりに理解してる積りです。あなたが物心ついたころから諍いの絶えなかった御両親、酒乱癖のあったお父さん、家庭内暴力であなたも殴られた事があったでしょう。そういう家庭環境があなたの幼い心をどれ程傷つけたか痛い程分ります。お母さんが離婚したのも理解できます。お母さんがお父さんの許に嫌がるあなたを残したのはお父さんに対するお母さんの最後の愛情だったのだろうと思います。あなたはその愛情で生まれたんですから。甲斐性のないお父さんの許でアルバイトをし乍あなたはやっと高校を卒業してお父さんから精神的に独立しようとした矢先にお父さんが亡くなられた。入院費用や看護でさぞかし大変な事だったろうと思います。恐らく恋人を作ることすらできなかったでしょう。そうしてやっとお母さんと二人で幸せな生活を築こうとした矢先、お母さんがおばあさんと同じ病気で老人ホームに預けなければならなくなった。入居費用や面会費用であなたは貯金すらできない状態になった。これ迄の人生であたなにとって人並みの幸せを感じた事は殆どなかったんじゃないすか。そのあなたが偽証によって更に人生の重荷を背負おうとしてる。僕も偉そうな事は言えない。保険会社と敵対してる遺族に雇われている身だ。遺族はただ単に保険金がほしいだけで地下鉄会社に賠償金を払いたくないだけでそれだけであなたの偽証を覆そうとしてる。僕もその片棒を担いでる。でも心の底からあなたには偽証によってこれからの人生を穢して欲しくないと思ってる。裁判では本当の事を言ってほしい。まだ人生の残りは長い。悔いのない様に生きてほしい」後ろ向きに花瓶に花を活けていた仁美の肩が小刻みに震えている。花瓶を置いたサイドテーブルに両手を突いて項垂れた。微かな嗚咽が聞こえてくる。「あなたに何が分かるの!」仁美が絞出す様にして出した涙声の中に誰に対するとも知れない底深い怒りが籠っていた。「僕には何も分らない。あなたがこれ迄生きてきた人生はあなただけの物だ。本当の事はあなた以外誰にも分らない。しかしこれからあなたが生きて行く人生はあなただけの物ではないかも知れない。そばに誰かいれば共有する事ができる。喜びは二倍に悲しみは半分になる。子供が二人できれば喜びは四倍に悲しみは四分の一になる。過去はもう終わった事だ。振返って悲しんだり怒ったりしたって変える事はできない。未来に掛けるしかないじゃないか。裁判で本当の事を証言してくれる事を祈ってる。僕が依頼人から受取る成功報酬はあなたにあげよう。お母さんの入居費用にはとても足りないかも知れないがあなたの勇気と将来に僕はかけたい。それにあなたのお母さんが廣川の娘である事がDNA鑑定で立証されればかなりの額の遺産が相続できる。私生児にされた事で辛い人生を味わったあなたのお母さんにはその遺産を受取る権利がある。廣川の遺族は抵抗するだろうがDNA鑑定で親子である事が立証されれば示談に持込む事ができる。そうなる様に僕は全面的に協力する積りだ」サンルーム越しに部屋に入ってくる深まる秋の黄ばんだ陽光がほんのりと赤みを帯びてきた。仁美は背を向けた儘戸惑う様に間欠的に鼻水を啜り上げている。「誰が見てもあなたのこれ迄の人生は辛い物であった事は間違いない。しかし誰だって悲しい事や辛い事は大なり小なりある。自分の経験を絶対化しない方がいい。絶対化すれば他人の悲しみは否定する事になる。自分の周りに塀を巡らせて孤立を招くだけだ。おじいさんの兄弟子だった三田という人は捨子で両親もなく子供の頃から小僧としてお寺で働き勉強がよくできて檀家の評判がよかったという理由でお寺の大黒さんに理不尽な虐められ方をして僅か二十歳になったばかりで戦争で死んでいった。彼にはあなたの様にテニスや飛行機のプラモデルで憂さを晴らすというゆとりすらなかった。自分の悲しみや辛さを絶対化すれば永遠に癒される事はない。自分の過去の嫌な事は自分から突離して見ればいい。そういう事もあった。ああいう事もあった。過去の事はそれでいいじゃないか。これから僕とミックスでテニスをしよう。楽しい事を一杯教えてあげるから」仁美は絞出す様に小さな声で言った。「分ったからもう帰って。お花有難う」土岐は仁美に名刺を差し出した。「僕の本名は土岐と言います」仁美はその名刺を一瞥して興味なさそうに力なく受取った。「知ってます。大野さんから聞きました」土岐は長田に小さく頭を下げてその部屋を出た。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月十日1 nomanomaさん 2022/04/08
    07:01

    十月十日 翌朝激しい二日酔いと喉の渇きで目が覚めた。午前九時だった。どうやって自宅に辿着いたのか記憶がない。久しぶりの痛飲と記憶喪失だった。頭痛を堪えて船橋法典の特別養護老人ホームへ電話した。「すいません。ちょっとお尋ねしますがそちらに入居している中井愛子さんに今日面会の予約が入っているかどうか分りますか」少し間をおいて若い男の声が返ってきた。「さあここは所謂病院とは違うので面会される方は一々予約はしませんけど。一応十時から五時の間ならいつでも入居者と御面会できますが」「そうすか。すいませんが、お名前を教えて頂けますか」「私のですか?」「ええ」「竹中と言いますが」「どうも有難うございました」電話を切ると土岐は階下の合鍵を持って一階の印刷工場に降りて行った。印刷工場の警備を兼ねる事で月五万円の割安家賃を支払っているが警備らしい仕事をした事は一度もない。時々近所のスーパーの急ぎのチラシの印刷があると土曜日も輪転機を動かしている事もあるが今日はひっそりとしている。事務室の固定電話で仁美の携帯電話にかけてみた。固定電話から仁美に電話するのは初めてだった。その電話番号は仁美の携帯電話には登録されていないはずだった。土岐は床に落ちていたチラシの紙を送話口に一枚挟んだ。声音を少し高くする。「見城さんすか」「はあ」疑り深そうな声が返ってきた。「こちら船橋法典の特別養護老人ホームすが今日か明日こちらに面会に来る予定はありますか」「今日か明日かはまだ決めてませんが」「そうすか。実は明日は一日中館内の清掃を行う予定になっておりますので、面会に来られるのでしたら今日の午後にお願いできればと思いまして」「そうですか分りました。それじゃ今日の午後面会に伺います」「どうも有難うございます」「失礼ですがお名前は」「竹中といいます」そう言うと仁美の返事を待たずに電話を置いた。仁美が竹中の声を知っていれば見舞いには来ないだろう。
    ■蒲田駅前のコンビニで菓子パン三個とペットボトルのミルクティーを買込んだ。蒲田から京浜東北線に乗車し新橋で銀座線、日本橋で東西線に乗継いで東陽町に着いたのは十一時頃だった。仁美のアパートを横十間川を挟んだ対岸から見る事にした。小さなオペラグラスで川越しの仁美の部屋のベランダが辛うじて確認できた。レースのカーテン越しに丸い蛍光灯の傘がちらついて見えた。土岐は川の欄干に腰を乗せてパンを食べる事にした。左手でオペラグラスを目に当て、右手でパンを口に運んだ。パンを全て食べ終えてミルクティーを全て飲み干し、三十分位して横十間ハイツの304号室に動きがあり、室内の蛍光灯が消えた。暫くして脇を抱えられた老人と仁美が川沿いの通りに出てきた。老人の足元が覚束ない。土岐は四ツ目通りの橋の袂で二人を待伏せする事にした。二人は四ツ目通りに出るとタクシーを拾った。タクシーは東陽町駅方向に走って行った。土岐は速歩で東陽町駅に向かった。駅のホームに二人の姿はなかった。次に来た西船橋方面の電車に乗った。西船橋で武蔵野線に乗換えて東陽町から三十分程で船橋法典に着いた。前に来た時と同様に土岐は駅前のスーパーで花束と菓子折を買った。船橋法典の特養ホームに辿着いたのは二時前だった。誰もいない受付の面会者リストに備付けの紐付きのボールペンで時山と記入して、その儘二階の愛子の部屋に向かった。晩秋を思わせる淡い午後の陽光が廊下や階段にセピア色に溢れていた。他愛のない笑い声やしわがれた幼児言葉がどこからか聞こえてきた。白衣の療養士と擦違ったが誰何しない。土岐は中途半端な愛想笑いを返した。愛子の部屋にドアはない。廊下から内部がその儘見通せる。土岐は部屋の入口に立った。愛子はベッドに腰掛け、その向かいに老人が車椅子に座り、仁美が入口を背に立っていた。土岐は声をかけた。「今日は」仁美が振返った。ショートヘアの前髪が眉毛を覆う。凍りついた様な驚きが窓から差込む逆光の中で土岐の前に迫ってきた。「時山さん?それとも土岐さん」「すいません土岐す」老人が皺に窪んだ虚ろな目で車椅子から土岐を力なく見上げた。「あんたか色々とわしを探ってたのは」「すいません、ある人の依頼を受けまして」「どうだ調べはついたか」「ほぼ。後は長田さんの釈明を聞くだけす」そう言い乍土岐は花束と菓子折をベッドに座っている愛子の脇に置いた。「つまらない物すが早く良くなって下さい」長田が仁美に言った。「あっちのサンルームにやってくれるか」仁美は長田の背後にまわり、車椅子を部屋の外に押出した。二階のサンルームには面会客のない老人達が弱々しい陽光を全身に浴びてリクライニングシートに寝そべっている。そこだけがどこかの温泉地か観光地の様な雰囲気を醸出している。仁美は大きな一枚硝子の前に車椅子を押してくると愛子の部屋に戻って行った。土岐は部屋の隅の籐椅子を引寄せて、長田の斜め隣に座った。「大分足悪いんすか」「リューマチでね。膝の関節が強張ってる。無理すれば動けない事もないが痛い。ここ数日、日に日に悪くなってる」「最近三重海軍航空隊の記念館に行かれましたよね」「香良洲か」「ええ」「記帳者名簿を見たのか」「ええ。新生印刷にも行かれましたよね」「新橋か」「ええ」「何で今頃と聞きたいのか」「ええ。三田さんとはどういう関係なのか」長田は前方の民家の屋根の上で穏やかに照っている太陽を眩しそうに見ている。雀が無邪気に瓦の上で戯れている。傍らを療養士が足音もなく通り過ぎ、暫くして土岐の為に来客用の折畳椅子を持ってきた。土岐は長田の斜め前に座り直した。長田は遥か遠くを眺める様にして訥々と語り出した。「法蔵さんはわしの兄弟子だった。わしは小学校六年の正月に糸魚川から敦賀の法蔵寺に小僧に出されて筆舌に尽くしがたい困窮の中学生生活を法蔵さんと共に過ごした。和尚は修行に厳しかった。毎朝の勤行、浄土三部経の暗唱、境内や本堂の掃除、朝餉と夕餉の準備、買物、葬式、法事、風呂焚き、写経、中学校の予習復習、自分の時間等全くなかった。中学の五年間を一枚の学生服と二揃いの下着で過ごした。靴下も下着も制服もつぎ当てだらけで河原乞食の様だった。学校行事で街中に映画を見に行く時もカネがないので体調不良と嘘ついて早引けした。弁当は日の丸弁当だった。余りに恥ずかしいので級友に見られない様に手で隠して食べた。靴は寺の長男のお下がりで貰ったばかりの時はだぶだぶだった。靴底は穴だらけで中に段ボールを敷いて学校に通った。体操着も一着しかなかったから体操の授業が連日ある時は洗った後、庫裡の竈の煙突に巻きつけて乾かした。冬の寒さは夏の暑さ以上に堪えた。便所に置いてあった北国新聞を下着と体の間に挟んで一晩中震え乍体を温めた。和尚は酒飲みで冬の豪雪の夜によく酒屋に使いにやらされた。日本陸軍が八甲田山中で雪中行軍で遭難した事に思いをいたし乍、雪の中で遭難死するというのは、こういうことなのかと法蔵さんと語合ったもんだ。法事に檀家回りをすると法蔵さんと二人で行くと法蔵寺へのお布施とは別に小遣をくれる家がよくあった。その儘持って帰ると大黒さんに取上げられるので法蔵さんと二人で隣の神社の本殿の下の石組みの脇に隠して貯めておいた事があった。法蔵さんは捨て子で実家はなかったので、わしがいつか糸魚川に帰る時の汽車賃にしようと協力してくれていた。しかしもう少しで往復の汽車賃がたまりかけた時、このカネが大黒さんに見つかって全額没収され、その上寺のカネをくすねたという身に覚えのない嫌疑をかけられてお仕置きを受けた。この時法蔵さんが全ての罪を被ってくれたので、わしへのお仕置は軽くて済んだ。わしも法蔵さんも何かにつけて大黒さんの虐めにあった。虐めの理由は大黒さんの息子達よりわしと法蔵さんの学校の成績が良かった事だ。それに檀家衆の評判もわし達の方が良かった。時間にもカネにも家庭教師にも恵まれていた息子達よりもわし達の方が全ての点で優れていた事が大黒さんにとっては我慢がならなかったのだろう。わし達を虐める事でその鬱憤を晴らしていたのだろう。京都の浄土宗の専門学校へは法蔵さんがわしより二年先に行った。法蔵さんは中学を四年で終えた。わしは五年かけて卒業してから京都に行った。京都の生活は敦賀の生活と比べれば天国だった。勤行も学校の勉強もあったが自分の事だけをやればよかった。敦賀では和尚さんの家族全員の雑用迄やらされていた。法蔵さんが海軍に志願した後、香良洲に一度会いに行った事があったが海軍は京都の寺よりも天国だ、敦賀と比べるとそれ以上だと言っていた。当時は食糧難だったから寺では十分な食事がなくて一日分の食糧が毎朝一杯の丼飯だけだった。丼飯を朝昼夜に分けて食べようと努力したがいつも午前中にはなくなっていた。その繰返しだった。法蔵さんは海軍ではお代わり自由でおかずもたらふく食べられると本当に嬉しそうに話していた。法蔵さんはわしの目にも美男子に見えた。お寺の長女の圭子さんが法蔵さんに恋焦がれていた事は随分後になってから知った。圭子さんは敦賀小町と呼ばれた程の美人でわしも心を奪われていたが所詮高嶺の花と諦めてはいた。この圭子さんが敦賀の住職と朋輩の関係にあった京都の住職の関係で、その京都のお寺の檀家総代だった清和家の次男と見合いをした。この時書生として潜込んでいた廣川と出会っていた。家格が釣合わないという事で圭子さんが破談になった後、廣川は圭子さんに恋文を送ってる。圭子さんは自分には法蔵という心に誓った男が居るので諦めてくれと返事を出した。そういう話を聞かされたのは戦後になってからだ。貴金属の行商で法蔵寺に出入りする様になって先代の住職が話してくれた。圭子さんが廣川と結婚したのはカネの力だったのかも知れない。とにかく廣川の羽振りは良かった。多額の寄付を法蔵寺に申出て圭子さんの親である住職も大黒さんも結婚を承諾せざるをえなかった様だ。戦後の農地解放で大半の小作地を失い法蔵寺も生活が苦しかった。圭子さんも法蔵さんが戦死したので、親の為に結婚を受諾せざるをえなかったのだろう」長田の口の中が干からびてきていた。声が度々かすれて聞き取りづらくなってきていた。長田の咳払いのやむのを待って土岐は質問した。「三田さんが特攻死ではなく事故死だと知ったのはいつすか」「数年前の事だ。廣川が戦後すぐ圭子さんに会いに来た時に住職に特攻死したと伝えたので、てっきりそう思ってた。全く疑問を持たなかった。しかし香良洲には昭和二十年当時、飛行機は一機もなかったという事を何かの本で数年前に読んで疑問に思い始めた。この八月に香良洲に行ったのはそれを確認するためだった。そこで会報に追悼文を寄せている長瀬の存在を知った。長瀬に会って法蔵さんの最期を聞きたかった。それに長瀬が寄贈した軍刀は骨董品だった。中尉だった長瀬が少将の軍刀を寄贈できるはずがない。名簿で長瀬の住所を調べた。東京の知合いの骨董商にお願いして長瀬の家に出入りしている業者がいないかどうか尋ねたら長瀬は骨董好きで五十年来の付合いのある骨董商が居た。長瀬は骨董好きというか、戦後その骨董商にかなりの貴金属や骨董品を売却したそうだ。中には国宝級の物もあったそうで、その骨董商はもう時効だからと教えてくれたが戦後長瀬が骨董商に売りに来たものは海軍の隠匿物資だったらしい。あの頃は全てが乱れていたから殆どの人間にモラル等なかった。長瀬もヒロポンをやってたそうだ。しかし話はそこ迄で法蔵さんと長瀬の関係は掴めなかった。長瀬の大手町の事務所に電話して本人に聞いてみたが三田法蔵なぞ知らないと言う。だがそれはありえない。奴は戦後、会報誌に法蔵さんへの追悼文を寄稿している。直接面会して聞こうかとも思ったが、その直後に廣川の転落事故があって仁美の部屋にほとぼりのさめる迄隠まってもらう事にした」長田の話の区切りを待って土岐は質問した。「あの日廣川とは茅場町で何をしてたんすか」聞こえている筈だがその質問には長田は答えない。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月九日2 nomanomaさん 2022/04/08
    06:58

    「いいでしょ」と宇多が靴を脱ぎ始めた。女将は玄関に降り二人の下足を整えた。「さあこちらにどうぞ」と暗い畳の廊下を奥へ進む。突当たりに四畳半の次の間付の八畳の客間があった。床の間があり、その右手に壺庭が見えた。床の間には寒山寺楓橋夜泊詩石刻の軸が掛けられている。畳の上には座布団が二枚あるだけで他には何もない殺風景な和室だった。二人が床の間を背に座布団に座って部屋の中を見回していると銘々膳が運ばれてきた。持ってきたのは矢絣の和服をぎこちなく着込んだ少女だった。その後ろから女将が、丸いお盆にビール瓶を二本載せて持ってきた。「最初はビールで宜しいですか」応諾する前に銘々膳のコップを目掛けて女将がビール瓶の口を差出してきた。最初に宇多、次に土岐の順で注いで回る。「市松姐さんはもうすぐ来ますので。それに新内の勘太師匠と幇間の植吉さんにも声をかけました」それを聞いて宇多は満足そうな笑みを見せた。土岐は名前を聞いただけで高そうな平均年齢に気分が少し暗くなった。「さっきこちらの予約をとる電話で確かかもめさんも出払っていると言ってましたが、かもめさんというのは半玉さんの事すか」「いいえアルバイトの女の子の事です。大体女子大生が多いんですが。敷居を高くしてるという訳ではないんですが、きゃぴきゃぴしたキャバクラ感覚の子はお断りしているんですけど」暫くして高齢の三人が料理と共に現れた。浅黄の羽織に三味線を持っているのが新内の勘太師匠、五分刈りで兵児帯にネルの着流しが幇間の植吉、艶々の鬘の下に罅の入る程白いファンデーションを塗りたくっているのが市松姐さんだとすぐ分かった。平均年齢は優に七十歳を超えている様に見えた。「何か踊りましょうか」と市松が言う。間髪を入れず制限時間を気にしている土岐が言った。「お三方に先に話を伺えますか」それを宇多がコップを持つ手で制した。「まあ、かけつけ三杯で取敢えずビールで乾杯しましょう」先刻何かを伝える際に女将をおかあさんと呼んでいた少女を呼びつけて女将はコップを三つ持ってこさせた。芸人三人が土岐と宇多の前に正座しコップを持った手に女将がビールを注いで行った。「折角来られたんだからお得意の十八番でも見せて頂きましょうか」と宇多は三つ揃えのチョッキのボタンをはずしすっかり宴会気分になっていた。土岐は完全に酔いの回る前に話を聞きたかったがスポンサーの意向には逆らえなかった。最初に市松が勘太師匠の三味線でひと舞い見せた。鬘の若々しい艶と顔肌のぼろぼろのファンデーションの不釣合いが際立っていた。しかし扇子の手捌と蹴出の足運びは往年の華麗さを彷彿とさせた。次に植吉が藤八拳の様な滑稽な踊りを市松との掛合いで見せた。二時間が一区切りと聞いていたので土岐は残り時間を時計で絶えず確認していた。最後に勘太師匠が新内をしんみりと流し始めた。土岐は切出した。「お三方にお聞きします。今から五十年位前、この辺りで廣川弘毅という男が芸者遊びをしていて芸者の一人と懇ろになったらしいというんすが聞いた事ないすか」市松が聞いた。「その芸妓さんの名前は」「それが分りません」植吉が市松と顔を見合わせる。「お客さんの名前が広川コーキさんと分ってもお客さんはその頃五万といましたので。何か特徴でもあれば」「その頃多分総会屋をやっていた筈です。だから所謂普通の企業の接待の宴会とは違う雰囲気だったんじゃないかと思うんすが。廣川は接待される側で接待するのは大企業の総務部の社員で。これが顔写真です」と土岐は廣川のパスポート写真を出して女将に渡した。女将はそれを右端に座っていた勘太に渡し、勘太から市松、市松から植吉へ回覧された。最後に植吉が土岐にパスポートを返した。その間BGMの様に勘太の三味線がばち打たれていた。土岐がパスポートを内ポケットにしまった時勘太のばちが不意に止まった。「コーキ、ヒコーキ。ひょっとして、その広川さんのお相手は飛行機さんじゃないかな」市松が勘太の方に膝を向けた。「飛行機さんって郭公姐さんのこと?」植吉が市松に聞く。「何で郭公姐さんの事を飛行機って言うの」市松が植吉と土岐と宇多の顔を交互に見乍説明する。「幾つ位の時だったかしら。郭公姐さんが四十を過ぎた頃から物忘れが激しくなって、その内最後には自分の娘すら分からなくなって。今で言うアルツハイマーっていう病気だったのかしら。水戸街道沿いの二階の欄干から空を見上げては飛行機って呟く様になったのよ。それでいつしか若い芸妓たちがからかう様にして飛行機さんって郭公姐さんの事陰で呼ぶ様になったのよ」勘太がその話に参加してきた。「そう言えばあの郭公姐さんはとびきりのヘビースモーカーで両切りのピー缶を毎日ひと缶すっていて、今で言うCOPDだったんじゃないかな」「何?そのシーオーピーデーって」と植吉が聞く。勘太がばちで煙草を吸う仕草をした。「私もそうだけど煙草を吸いすぎてすぐ息切れがして普通に息をしているだけでもヒーヒ―音がして。私一度だけ郭公姐さんの飛行機と言うのを間近で聞いた事があるんだけどヒコーキと言う時に一瞬息を吸込んで、その時吸込んだ空気が喉で鳴った様なヒーという音がして、その後で深い溜息を吐く様にコーキと言っていた様な気がしたんだけど」土岐が口を挟んだ。「その郭公姐さんが空を見上げ乍弘毅と言ってたんすか」勘太が土岐の血相に上体を捩じる様にして少し身を引いた。「いや、そんな気がしたと言うだけで」追込む様に土岐が質問する。「郭公姐さんの名前は何と言うんすか」市松が答えた。「和子だから郭公にしたと当時置屋のお母さんが言ってました」「姓は」市松は首を捻った。土岐は市松を正面に見据えて言った。「中井和子じゃないすか」「そうそう中井さんだった。娘さんが小学校に上がった時胸の名札が確か中井だったわ。隅田川の土手の桜が満開で。その頃お座敷で一緒になった事があって娘さんの父親に報告の電話を初めてかけたら奥さんが出てきたとか。伝言を頼んだけどその後一切連絡がないから多分無視されたんだろうって悲しい様な情けない様な切ない様なそんな感じでぼやいてたわ」土岐はインサイダーで智子が仁美は飛行機が趣味だと言っていたのを思い出した。郭公姐さんと呼ばれた仁美の祖母が空を見上げ乍、飛行機と叫んでいたのを娘の愛子は聞いていたはずだ。その愛子が何かの折に仁美にその事を話したのかもしれない。幼児期のその記憶から仁美が飛行機に愛着を持ち、それを趣味にしたと考えられなくもない。隣の宇多が土岐に耳打ちした。「どういう事だ」カネを出す自分がツンボ桟敷に置かれている事が不満の様だった。土岐は慌てて説明を始めた。全員がそれに聞き入った。「中井和子の旦那が多分廣川だったんす。和子の一人娘の愛子は私生児で恐らく廣川の子だったんじゃないでしょうか。確証はありませんが。それを苦にしたのかどうか、それも含めた廣川の女遊びを苦にして正妻の圭子は自殺してます。そうであるとすれば愛子の娘の仁美は廣川の孫に当る。仁美は長田の孫でもある。この三人が茅場町で交錯して廣川は轢死体となった。現在痴呆状態にある愛子は全ての事情を知っている筈だが、そういう状態になったのは母親の和子からの遺伝という事になるのかも知れない。その事を廣川は知っていたのかどうか?いや多分知らなかったんじゃないだろうか。愛子が自分の子供である事を知ってれば廣川程の財力があれば仁美に何らかの援助はしてた筈だ」座が一遍で白けた。勘太が一同に聞いた。「郭公姐さんはどこの置屋だった」市松が答えた。「確か隅屋だったと思ったけど」女将がそれを補足した。「隅屋はこの間代替りしたばかり。先代のお母さんは一応引退した事になってるけどまだ隅屋にいる筈。連絡をとってみましょうか」女将が少し首を傾げ、土岐の顔を斜め目線で見た。土岐は呑みかけていたコップのビールを膳に戻した。「お願いします。できたら話を聞きたいんすが」「いればすぐ来ますよ。この裏なんだから」と言い乍女将は手を突いて席を立った。それから十分位して髪も化粧も堅気風の老女が現れた。和服の着こなしと立ち居振る舞いは素人には見えなかった。波屋の女将が紹介した。「隅屋さんの先代の徳子お母さんです。お話は玄関先で伝えておきました」土岐が早速質問した。「中井和子さんと廣川弘毅氏の事についてお話し頂けますか」徳子は辺りを見回し主賓と見立てた宇多に軽く会釈して話出した。「郭公姐さんは終戦から暫くしてこの街に来て最初についた旦那が廣川さんでした。廣川さんはとても遊び慣れた人でしたが薄情で酷薄な人で、それを見抜かれて、余計な事を言う様だけど廣川さんとは深入りはしない様にと先代のお母さんが年中説教してました。廣川さんはいつも接待される側で接待する人は入替わり立替わり、いろんな会社の方が来られました。廣川さんは自腹では一度も来られなかったと思います。ある頃からぴったりと来られなくなって、それと符牒を合わせる様に郭公姐さんが愛子ちゃんを生んで先代のお母さんは口を酸っぱくして父親に認知してもらう様に説得したんですけど結局愛子ちゃんは私生児として育てられる事になって、とっても可愛い子で郭公姐さんがお座敷に上がっている時は隅屋の茶の間でお勉強したりテレビ見ていたりして仲間のお姐さん達のペットみたいな感じで皆に可愛がられたんです。愛子ちゃんが中学を卒業する頃、愛嬌もあるし十人並み以上だし、芸者にしてみないって先代のお母さんが郭公姐さんに聞いたんですけど愛子ちゃんはその気があったけど郭公姐さんが断って、それで愛子ちゃんは高校に進学して卒業後地元のスーパーに就職して、その頃廣川さんが不意に現れて廣川さんの奥様のお兄さんだとかいう敦賀の住職と二人連れで、その時は廣川さんがぎこちなく接待してましたね。それから二、三年の間、年に一回位来る様になって愛子ちゃんが成人した頃、今度はその住職が一人で来られて、その時以来廣川さんは一度も見えてません。で住職さんが愛子ちゃんに縁談があるというので昼間隅屋のお座敷でお見合いしました。お相手が確か見城という方で、その住職の古い朋輩の息子さんだという事で見城さんのお父さんにとって住職の方は主筋にあたるとかで愛子ちゃんがその方と結婚してから郭公姐さんが少しずつおかしくなってお座敷に上がれない様な状態になって愛子ちゃんが引取ってから見城さんとうまくいかない様になったみたいで愛子ちゃんにはお子さんが居られたみたいでしたが離婚されて郭公姐さんのお葬式の後どうなったか愛子ちゃんともお会いしてないんで分りません。でも離婚したのは郭公姐さんの事だけじゃなくって愛子ちゃんの旦那の見城さんにも原因があったみたいで、一度だけ愛子ちゃんから聞いた事があったんだけど見城さんは競輪、競馬、競艇、マージャン、花札、チンチロリン、博打なら何でも好きで働くのは嫌いな怠け者で殆ど正業に就く事がなかったみたいで無頼の人で生活は愛子ちゃんのスーパーのパート店員の給与だけで。そうこうするうちに郭公姐さんも亡くなられて、私は廣川さんに連絡する様に愛子ちゃんに強く言ったんですけど、とうとう連絡もしないで。とっても寂しいお葬式でした。会葬者が十人位で」徳子は声を詰まらせた。座を湿っぽい沈黙が支配した。遠くの座敷から三味の音が微かに聞こえてきた。土岐がその沈黙を破った。「皆さん、中井愛子さんが船橋法典の特別養護老人ホームにおられるのをご存知すか」一同が揃って波打つ様に首を左右に振った。宇多が徳子に聞いた。「その中井愛子さんはご自分の父親が廣川氏だと知っていたんでしょうか」「さあ、当時はDNA鑑定なんていう便利な物はなかったし、郭公姐さんはとうとう最後迄父親の事は愛子ちゃんに言わなかったみたいだし」今度は土岐が徳子に聞いた。「和子さんはどうして父親の事を秘密にしていたんしょうか」「これは私の推測ですが廣川さんのご指名が頻繁にあった頃、一度吉野とかいう刑事さんと玉井とかいう刑事さんに呼ばれて廣川さんの事を根ほり葉ほり聞かれた様です」吉野と聞いて土岐の記憶に保木間の碁会所の片隅でグレーのジャージを着てサンダル履きで左手に弁当箱、右手に箸を持ってぶつぶつ呟いている皺だらけの老人が甦った。同時に玉井と聞いて船井ビル八階の玉井企画というレタリング文字のある事務室が思い出された。徳子の話は続いていた。「それ以来廣川さんが単なる御贔屓筋ではなくなったみたいで。吉野とかいう刑事さんと玉井とかいう刑事さんに何を聞かれたのか最後迄言わなかったけど、郭公さん、廣川さんからまたご指名があったわよって言うと一瞬顔を曇らせる事があるかと思うと、そのお座敷からの帰りは上機嫌で。アンビバレントって言うんですか?そういうの。だから自分は兎も角、愛子ちゃんには廣川さんと関係を持って貰いたくなかったんじゃないでしょうか?寧ろ廣川さんには認知して欲しくなかったのかも知れないですね」土岐の脳裏には焦点の合わない目をした愛子の顔が浮かんでいた。着ている物は紺のジャージに臙脂の薄汚れたちゃんちゃんこ。髪はぼさぼさでフケが砂を撒いた様に散らばっていた。確かな殺意があるとすると愛子の様にも思えたが見た限りでは実行犯の資格はない様に感じられた。廣川が向島から遠ざかったのは総会屋の表舞台から退場した時期に符合する。それを和子は廣川の心変わりと捉えたのかも知れない。会えない時間が次第に和子の憎しみを蓄積させて行ってついにそれが娘の愛子に相続され殺人へと暴発したのか?しかしあの痴呆状態の愛子にそれは不可能だと思える。あの魂が抜けた様な表情が演技であるとしたら完全犯罪になる。殺人を実行できる精神を持合わせていないという事が最大のアリバイになる。そこで規定の二時間が過ぎようとしていた。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月九日1 nomanomaさん 2022/04/08
    06:57

    十月九日 翌朝十時頃、前日書きあげた調査報告書の文書末の調査日誌と経費一覧に木曜日分を付加えた。それから加奈子に電話し昼頃訪問する事を伝えた。午前十一時に事務所を出た。田園調布に着いたのは十二時前だった。駅から廣川邸迄の風景にそれ程の変化はないとは思われるが土岐には紅葉の色づきで推量される時の移ろい以上の変化がある様に感じられた。加奈子は応接室のドアを開けて待っていた。加奈子が珈琲を持ってくる間に玄関脇の固定電話の重量を確認した。僅かに通常より重く感じられた。盗聴器はまだ仕込まれた儘の様だった。加奈子の珈琲を応接間のソファに腰掛けて迎えた。珈琲に手をつける前に土岐は調査報告書をショルダーバッグから取出して、クリアファイルごと加奈子に手渡した。加奈子が目を通している間に土岐は珈琲にミルクとグラニュー糖を落とした。スプーンでかき混ぜるとコンデンスミルクが白い渦を巻いて琥珀色の珈琲に沈み、茶色のミルク珈琲に豹変した。時折ダブルクリップでとめたA4の報告書を加奈子がめくる音がする。その音が幾度か繰返された後、速読した加奈子が顔をあげた。「数日中に結論が出るとなってますがいつ頃に」「早ければ来週早々にでも」「そうですか。それじゃ、結論の出た段階で宇多弁護士と打合わせして頂けますか」「その積りす。調査活動の依頼主が宇多弁護士に移った段階でこちらとの契約は終結という事で宜しいすか」「構いません。御苦労様でした。ではあと数日結論の出る迄お願いします」「今後は廣川氏の女性関係に絞りたいと思うんすが以前にもお聞きした事があるとは思いますが、アイテイの相田社長と開示情報の経理の松井さん以外に関係が有ったかも知れないと思われる女性を教えて頂けますか」加奈子はジャカード編みの利休鼠のプリントニットジャケットの腕を組んで床のアラベスク紋様のペルシャ絨毯に目を落とした。焦茶色のブロッキングレザーパンツの足を組んで右膝の上に組んだ左肘を乗せている。「あの人は私もそうだけど基本的に素人さんとは深い関係を持たなかったと思います。だから相田貞子も事務の松井さんもそれ程深い関係ではなくって仕事関係の延長線程度じゃなかったかと思います」「すると玄人筋ではどの辺で遊んでいたんすか」「随分と前の事で記憶が確かじゃないけど、私と出会う前迄は深い関係があったらしいのは川向うだけだったんじゃないかって所属してたクラブのチイママから聞いた事がある様な気がします。でもそれは廣川がまだ若い頃の話で五十年近く前の話で」「その川向こうというのは?」「隅田川の向こうで、向島の事です」
    ■廣川邸を辞すと土岐は田園調布から目黒線で三田に出た。三田から浅草線で押上で降り徒歩で北上して向島についた。言問橋東詰のコンビニの若い店長に置屋の所在を聞いた。置屋を知らない様だった。「オキヤって何屋さんですか」「芸者を斡旋する所すけど」「芸者?そんな人この街にいたんですか」土岐は聞込みを諦めた。地理的に芸者がこの店で買物をしてもよさそうだがどうも彼女らは私服以外ではコンビニには来ない様だ。水戸街道の交差点の交番で改めて聞いた。若い巡査が壁に貼ってある所轄内の地図を見乍答える。「ここから一番近い墨堤組合の組合長やってる置屋さんでいいですか」警官は地図を指でなぞる。そこだけ地図の印刷が擦れ落ちている。警官の説明を聞いて水戸街道と隅田川沿いの墨田公園に挟まれた南北に延びる街を白髯橋方向に北上した。警官が教えてくれた一方通行の狭い路地の左側に黒い板塀に囲まれた波家という仕舞屋風の木造家屋があった。塀の上から剪定で整えられた松の枝ぶりが見越せた。白木の木戸をするりと開けて土岐は人を呼出した。「今日は。どなたかおられますか」暫くして銀鼠の和服姿の引詰めの老女が出てきた。「はい何ですか」片膝を付けた姿勢にいかにも玄人という風情を漂わせている。「ちょっとお聞きしたい事がありまして。終戦直後の事なんすがこの辺で廣川弘毅という人が遊んでいたと思うんすがそのお相手をした人について聞きたいんすが。お分りになるしょうか」老女は土岐の顔をまじまじと見た。土岐が無表情でいると次第に呆れた様な顔に変貌した。「そういう事はお座敷できいて頂けますか?御座敷でしたら、どんな事にもお答えします」「しかし私馴染じゃないもんで」老女は洗顔料で洗った後、化粧水だけをしみ込ませた顔で土岐の黒い靴紐の付いた茶のスニーカーの爪先からカーキ色のチノパンとコーデュロイのジャケット迄見上げ、それから目線を足先に戻した。その目の移ろいを二回繰返した。「初見でも構いませんよ。昔はうるさかったんですけど。今は、予約さえして頂ければ」そう言い乍老女は帯の間から角のとれた小ぶりの名刺を人差指と中指で挟んで差出した。「こちらに予約を頂ければいつでも御座敷を用意いたします。お尋ねは広川コーキという人のお相手をした人ですね五十年位前の」土岐は渡された名刺を見た。波家という草書体の文字の上に松の枝がデザイン化され、下に川が描かれている。裏に電話番号と簡単なアクセス地図が描かれていた。「それじゃ、出直します」置屋で芸者を呼ぶと幾らかかるのか土岐は知らなかった。調査でカネのかかる時は宇多に頼むしかなかった。土岐は言問橋を渡り乍宇多に電話した。「いつもお世話になってます。土岐ですが宇多先生おられますか」嬌声に近い女の声が返ってきた。「あら土岐さん、お久しぶり。先生は今向かいのホテルでクライアントと面談中ですが、三十分位で戻ると思います。何かご伝言でも」「これからそちらに向かうので一時間以内には着くとそうお伝え下さい」土岐は水戸街道を隅田川沿いに南下し徒歩で浅草に向かった。都営浅草線の浅草駅迄置屋の波家から三十分近く要した。馬喰横山で新宿線に乗換えて九段下で降りた。九段下から靖国通りを靖国神社沿いに坂を登り武道館を左手に見て最初のT字路で横断歩道を渡り英国大使館方向に左折し三つ目の雑居ビルに入った。狭隘な階段を二階に上ると正面に宇多法律事務所と扉のすり硝子にレタリングされた部屋があった。ドアを開けて入ると小さな受付がある。気配を察し隣の部屋から賑やかな秘書が出てきた。「いらっしゃいませ。土岐さんお久しぶりですね。お顔を忘れる所でした」この秘書は宇多の御手つきだと見立てているので土岐は余り愛想良くしない様に努めている。「宇多先生戻りました?」「たった今。なんか計った様ですね」と言い乍秘書は受付脇の応接ルームに土岐を招じ入れる。「今お茶を持ってまいります」と言って部屋を出て行く。それと入替わりに宇多が現れた。深いグレーの三つ揃えが高級そうな生地で仕立てられたオーダーメードである事は土岐にも分かる。「貧乏暇なしだ」と溜息を吐いて転げ落ちる様に本革張りのソファに腰を落とす。土岐は静かに腰をおろし乍嫌みの様な自嘲をもらす。「貧乏の意味合いが、僕とは二ケタ程違いますけどね」宇多は土岐の言う事を無視する。「それでどう?佐藤加奈子の一件は」「ほぼ調査が終わりつつあります」宇多とは一歳しか違わないが力関係から宇多は土岐を見降ろす様に言う。「で勝てそう?」「多分」「でも警察は自殺で片づけたんでしょ?」「担当刑事は自殺と思ってない様です」「でも職務義務違反になるから、そんな事裁判で証言するわけないでしょ」「自殺の根拠は目撃証言でそれは間違いなく偽証です」そこに秘書がお茶を持って入ってきた。テーブルにお茶を置き乍屈み込んでパンティラインが浮かび上がる腰の辺りを宇多はじっと見つめている。「例の見城仁美とかいうOLね。で偽証をどうやって立証するの」「目撃者がもう一人いて、男子学生なんすが彼に仁美の証言が偽証である事を証言して貰います」「どうやって」「仁美の最初の証言は男子学生とほぼ同じなんすが後で自殺だと証言を変えたんす」「最初の証言の記録は残ってるの」「海野刑事が聞いてます」「でもその人自殺で調書をあげたんだからそんな事証言しないでしょ」「いえ大丈夫す。来年定年なんで僕と共同事務所を経営する事になってます。定年後に法廷に立って貰えると思います」「ちょっと待ってよ。裁判の開廷が来年に延びたらその事を相手の弁護士に突込まれるでしょ。共同事務所を立上げたらその海野刑事は利害関係者になっちゃうでしょ」「そうなれば共同事務所の経営は先延ばしにします。ここの事務所からの仕事をもっと回してくれれば海野刑事にとっては証言の励みになると思います」「それも結審してからね。でも一審の後でその事が相手の弁護士にばれない様にしないとね。上告期限後にしてもらわないとね」宇多はテーブルの上のシガレットケースを開けると葉巻を取出してライターで火を付けた。バニラの様な甘い香りが土岐の鼻先を擽る。宇多が煙を吐出す。「物証がないからもう少し状況証拠を積上げないとね。目撃者がいても自殺だと思う思わないでは水かけ論で警察が自殺で処理した事もあるし、保険会社相手ではまず勝てない」「USライフの顧問弁護士とはどういう話になってるんすか」土岐は宇多の表情を注視した。嘘をつく可能性があると踏んでいた。瞬時に姦計を巡らしているのが宇多の表情から滲出ている。「大野女史から聞いたのか?向こうは示談が成立しそうだと勝手に思込んでる様だが」「実際の所どうなんす」「こっちの手の内を見せる訳がないでしょ。向こうがそう思いたければそう思わせておくだけだ」と不愉快そうに言う。土岐にUSライフとの癒着の嫌疑をかけられた事に気づいた様だ。土岐の疑念が図星でない事を宇多は弁解する。「こちらはあんたと違って事務所経費や事務員の給与やら固定費が掛って大変なのよ。思わず知らず、そういう心掛かりが言動を曖昧にさせる事はあるけど筋はいつも通してるから心配しないで大丈夫」それを聞いて土岐は待っていたかの様に身を少し乗出した。「そこで今夜、証拠集めをしたいんすが付合って頂けますか」「また接待交際費のおねだり」「すいません。今回は幾ら用意していいか分らないんで」葉巻煙草の煙を吐出し乍宇多の顔色が少し渋目に変わった。「どこ」「向島す」「へえ、あんな所の馴染なの」「まさか。今日が初見です」「なんだ裏も返してないのに接待」「今夜宜しければ予約をとりますが」「残念乍今夜は他に何の予定もないので付合わざるを得ないな。まあ向島も一度位は行って見てもいいでしょう。銀座も新宿も六本木も飽き飽きしたし、じゃあ向かいの中華料理屋で腹ごしらえして一杯ひっかけてから行く事にするか」土岐はそこで貰った名刺を見乍波家に七時の予約の電話を入れた。五十年前の事を知っている人を座敷に呼んでくれる様に頼んだ。若い芸妓は不要とも伝えた。「そうですか。それは助かります。今日は金曜なんで若い子はかもめさんも出払ってて」昼間会った女将の声だった。九段上の中華料理店で夕食をとり乍これ迄の調査結果を宇多に説明した。二人で紹興酒の中瓶を一本空けてから向島に向かうタクシーに乗ったのは六時半前だった。七時丁度に急ブレーキと共に波家の玄関前に着いた。黒い三和土に二人で足を踏み入れると昼間会った女将が三つ指で迎えてくれた。「どうぞ」と言う。土岐はどうぞの意味が把握できずに戸惑った。「こちらで少し待つんすか」「いえお二人さんなら丁度いい部屋はここにもあります。それに芸妓をあげないと言われるんで、こちらの方がお安く遊べます。ただお料理はお隣からのお取寄せになりますが」と言い乍女将は宇多の承諾を得ようとしている。三つ揃えの宇多がスポンサーである事を既に見抜いていた。

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月八日3 nomanomaさん 2022/04/08
    06:54

    「これに似た顔をどこかで見た覚えがあります。これ頂けますか」「ああやるよ」土岐は似顔絵を四つ折りにして、内ポケットに仕舞った。「その学生と仁美を対決させたらどうでしょ」「仁美がそうでないと言い張ればそれ迄だ」「母親の特養移転の経緯の線はどうでしょ」「有力ではあるが民事では民間保険会社に対して捜査権がない。警察の方では廣川は自殺で処理されてるんだ。養護医療保険を偽造したとすれば連番の契約書番号で偽造の証拠を掴めるかも知れんが向うはプロだ。時期的に都合のいい中途解約した番号を使えば偽造の証拠を掴むのは容易でない。民事で廣川の死を他殺とするには膨大な状況証拠を積上げるしかないだろう。それを裁判官がどういう心証で捉えるかだ。宇多弁護士は悪名高いから裁判官の心証はよくないだろうな」海野の宇多評に土岐は思わず頷いた。土岐は自分の推理を吐く。「現場から逃走した老人は長田の様な気がするんす。糸魚川の自宅には暫くいない様なので多分そうじゃないかと思うんす。彼が殺人犯でないとするなら真相を話してくれそうな気がするんすが」「なぜ逃げたかだ。名乗り出てもこない。仁美から何らかの情報は伝わってる筈だ。なんせ祖父と孫の関係なんだから」「仁美のアパートの家宅捜索をできないすかね」「あそこに長田がいる事は調べがついてる。しかし捜査令状はとれない」「任意同行はどうすか」「だから言っただろ。警察の方は自殺で一件落着してる。色んな事情はあるにせよ警察はそうしたいんだ。そういう意志がどこかで働いてるんだ」「玉井のルートすか」「玉井はとっくに定年退職してる。特暴連の大手町支部の支部長を務めてはいるが支部というのは消防団みたいなもんでNGOだ。そんな下っ端の意思じゃない。もっと上だ」「と言うとキャリア組の茅場署長の上という事すか」「何の証拠もないがな。俺の勘だ。組織には意思がある。女の素振りと同じで示された結果で意思を推測できる。廣川の事件は穿ればいくらでも穿れるが早々に上から自殺処理の意思が示された。俺みたいな末端のペイペイにはいかんともしがたい」「長瀬の口を割らせれば事件の大凡の輪郭が掴める様な気がするんすが」「どういう理由でしょっぴくんだ。長瀬はただの会計士じゃないぞ。監査法人の代表社員をやってた頃は日本を代表する一部上場企業と太いパイプを築きあげた。定年で個人事務所を開いてからは政界の大物の税理業務を一手に引受けてる。何社もの大企業の社外監査役もやってる。恐らく元衆議院議員の船井や八紘物産相談役の馬田の口利きだろうと思うが。本当の権力を握ってる奴らは表に出てこないんだ。俺にしたってお前にしたって奴らにしてみりゃ護摩の灰以下だ。しかも最近紫綬褒章の推薦を受けてる。推薦者は久邇頼道だ。しかも賛同者は馬田と船井だ。これだけの大物が推薦したとなると受章は間違いない。この夏内閣府賞勲局からの依頼で形式的な身辺調査をした。ばりばりの現役刑事はこんなガキの使いみたいな仕事はしないが俺は定年間際の警部補だからな。まあ相応な仕事ということなんだろ。長瀬の犯罪歴は駐車違反程度しかない。所轄の八丁堀の超高級マンションに数年前に引越してきて住んでるが初代のマンション管理組合理事長を務めたそうで住民の評価は高い。悪い噂は全くない」「何か突破口はないすか」「仁美しかないだろ。それに同居してる長田。俺はかみさんが居るから駄目だが、あんたチョンガーだろ。仁美は俺の好みではないが目撃者の男子学生がぞっこんみたいだったから蓼喰う虫も好き好きって事かな。あんた仁美を攻めてみたらどうだ」「そんな他人事みたいに。仕事と情は別す」「いやあそういう意味じゃない。偶々仕事と情が一致する事もあるだろうという意味だ」土岐は何となく割切れない思いだった。仕事の為に仕事以上に重要なものを犠牲にはできないという思いだった。海野は土岐に諭す様に言う。「何れにしても馬田、長瀬、玉井、船井の線はとてもじゃないが俺たち風情では太刀打ちできない。かりに真実が分かったとしても週刊誌ネタになる程度でひょっとしたら実行犯が検挙できるかも知れないが警察組織にとっては恐らくキャリア組にとっては何の手柄にもならん事案だ。実行犯はトカゲの尻尾で恐らく本陣には到達できないだろう。かりに本陣が見えたとしても全ては時効の筈だ。こういう事案は五年とか十年に一度お目にかかれるが大体いつも幕引は同じだ。うやむやの内に終わる」土岐は海野の話を半分聞き乍仁美に対する自分の感情を吟味していた。「仁美を落とすにしても彼女は剣もほろろでとりつく島がないんすよ」「そりゃそうだ。お前さん、相手を落とすには相手が一番欲しがってる物を与えなきゃだめだよ。あの子は物欲しげなそういう顔してる」「カネすか」「それもあるがお前さんにはないだろ」「じゃ僕には落とせないという事すか」「愛情だよ。これはカネに代え難い。彼女は愛してやるに値する。どんな女でもそうだ。誰だって愛してやるに値する。ただ一人の男が愛して落とせるのは一人の女だけだ。だから俺にはできない。しかしお前にはできる」土岐は生ビールの底を見つめた。もう一粒の気泡も浮かび上がってこない。土岐が思案していると海野が生ビールとおつまみを片づけ始めた。店は次第に混雑してきた。海野がお愛想をしたがっている雰囲気を土岐は感じ取った。「成功報酬が加奈子からいくらとれるか分からんが俺は協力するぞ」そう言って海野は立上がった。土岐は海野を信じる事にした。「これ迄の調査報告書を添付ファイルで海野さんのアドレスに送信しますのでそれを読んで見た上で後日コメント下さい」

  • 土岐明調査報告書「学僧兵」十月八日2 nomanomaさん 2022/04/08
    06:53

    ■銀座線で日本橋で下車し株都に着いたのは六時少し前だった。店内を見回して海野がまだ来ていない事を確認し、出入口に一番近い席についた。二、三名の先客がいた。五十名以上は十分に収容できる店舗からすると閑散としていた。手持無沙汰の店員が早速オーダーを取りに来た。土岐は「相客が来る迄待ってくれ」と伝え手帳を広げた。手帳には関西と北陸での調査メモがはみ出しそうな程に書込まれていた。六時を少し回った所で海野が飄々と現れた。「よう」と人懐っこい様な馴れ馴れしい様な挨拶をする。初対面からそういう人間であった事を土岐は思い出していた。「ごぶさたしています」「どう?調査の方は」「混乱してます」「こっちはもう完全に片付いた。俺は今お宮さん担当だ」「コールドケースすか」「そう。緊急の初動捜査や人手の足りない時には駆出されるが今の所警察組織の威信をかける様な重大な事案がないんでそれ以外は昔の書類の閲覧だ。洟ぶく提燈で居眠りばかりしてる。定年迄あと半年もないから安楽死というか重要な事案は引摺らない様にとのお偉いさんの有難いご配慮だ」注文取りが来たので海野は前回と全く同じ物を注文した。土岐はどうでもよかったので海野に任せた。土岐は待ちきれない様に話出した。「仁美の証言で自殺に処理された様ですが偽証である事が証明できます」「ほう。それはたしたもんだ」と言い放って海野は土岐の説明を待っている。土岐は躊躇している。土岐の情報がUSライフの大野に筒抜けだとすれば民事で隠し玉として使えなくなる。「言ってもいんすが大野直子の話がちょっと気になってまして」「会ったのかあの色っぽいねえちゃんに」「彼女が言うには海野さんはUSライフの嘱託に内定したとか」「その事か。まあ内定は被雇用者が蹴っても企業側は損害賠償請求はできないという判例がある。彼女に対して俺が内定に承諾したと思わせる受答えをしたというのが正確な所だ」「と言う事は」「お前は人を見る目がないな。俺がこの年でなんで警部補だか全く理解してない。定年間際でいまだに警部補なんていう刑事はまずお目にかかれないぞ。懲罰的な意味合で警部補に留めおくというケースもあるが俺の場合は最後迄とうとう組織に馴染めなかったというケースだ。警察に入った頃から上司の意向には悉く反抗してきた。特に自分の手柄を立てようとする上司には徹底的に逆らった。部下のやった事を自分の手柄にして上役にアピールし出世を画策し、部下をどこ迄も利用し平気な面をしている奴を見ると反吐が出た。一将功成り万骨枯るだ。そういう俺がUSライフの様な組織に馴染むと思うか?嘱託であれ正社員であれ組織に属せば命令に従わなきゃならん。それにあのねえちゃんにUSライフの嘱託を了承したと思わせとけば、保険会社の情報も入手できる」土岐は聞き乍、幾度も納得した様に頷いた。「でどんな情報が入手できたんすか」「お前の情報と交換で話してやろう」そこで海野は運ばれてきた生ビールを一口飲み付出しに箸をつけた。「USライフとしては廣川が自殺であれば死亡保険金三千万を支払わないで済む。だから仁美を抱込む事は理解できない事ではないが、そのやり方が少し度を超えている。まず認知症の仁美の母親を費用の安い水上の山奥から仁美の自宅に近い船橋法典の地方自治体の第3セクターが運営する特養に移転させた。この時鼻薬を嗅がせて、地元の市議会議員に斡旋を依頼した人物がいる」「誰すか」「誰だと思う」海野はにやりと笑う。土岐はかぶりを振って生ビールのジョッキを口に運んだ。「長田すか」「あんなフ―テンにそんな政治力はない。船井だ。船井は今は建築士事務所を構えているが嘗て衆議院議員だった時の人脈が太く残ってる。船井は議員であり続けるよりこの人脈を使って公共事業の箱物行政を食い物にして私腹を肥やす事を選んだ。カネはUSライフから出てるが、その圧力は大株主から出てる」「大株主って、USライフは非上場じゃないすか?どうして分かったんすか」「非上場だが有価証券届出書提出会社だ。一億の社債を発行してるんで有価証券報告書を提出する義務がある。EDINETで閲覧したら大株主に八紘物産の名前があった。八紘物産からの圧力があって医療介護保険を捏造し中井愛子を被保険者とした保険契約を偽造した疑いがある。そうでなければ安月給の仁美に月額二十万近い特養の入所費用が支払えるはずがない。そういうリスクを冒して迄、仁美に偽証させるとなると三千万の死亡保険金の支払をけちるというストーリーがやや弱くなる。カネだけの問題じゃない。保険契約書偽造という罪を犯してる。ばれればUSライフは金融庁から何らかの行政処分を受ける。ダメージは三千万どころではないだろう。とすればそれ以上の何かがあるという事になる。廣川を自殺とする事で生じる三千万を超える何かが八紘物産絡みであるはずだ」土岐は海野の真剣な顔と生ビールの泡を交互に見つめていた。海野のシミやイボだらけの老醜に塗れた真面目な表情を凝視する事は土岐には耐えられなかった。土岐は切出した。「それじゃ、私の方からも決定的な情報を。仁美の目撃情報は物理的にあり得ないという結論す」「ほう」と海野はジョッキを傾ける。聞いてやるから言ってみろという様な風情だ。海野は顔を少し斜にして右耳を土岐の方に傾けている。「廣川を轢いた電車は五時三分発なんすがその時間に仁美が現場にいる事は不可能だった」「どうして」「同僚の双葉智子の証言では仁美は五時丁度に三光ビルにある会社の部屋を出ているんすが男の足で走っても五分以上かかるんす現場に到達するには」「だから五時三分発の電車に轢かれた現場を仁美は目撃できなかったという論法か」「そうす」「それはちょっと弱いな」「なんで」「ラッシュの時間帯のダイヤは平気で二、三分の遅れが出る。乗客が扉の締まる寸前でドアに駆込んで挟まれただけで数十秒の遅れが出る。それが何駅も続けば一、二分の遅れはざらだ。それだけじゃない。線路は一本しかないからダイヤの遅れは一番遅れた電車と同じになる。だからラッシュの時間帯には駅の電光掲示で次発の発車時刻は出さない事になってるんだ」「じゃ、その電車は遅れてたというんすか」「かも知れない。公判で覆される惧れがないとは言えない」「そうすか」土岐は肩を落として生ビールを喉に流込んだ。仕方なくもう一つの玉を出した。「それじゃ、こういうのはどうす。廣川が開示情報を郵送でなく手渡ししてた所があるんすが、その中の一つに八紘物産の第二総務部があります。さっきのUSライフの大株主の話と繋がりませんか」聞き乍海野は考込んだ。腕組をしているが腕が短く、しかも太いので組んだ腕が解けそうになっている。海野は自問自答する様に呟く。「現金授受の目的で開示情報を直接総務部に運んでいたとすればその関係を断つ為に廣川を殺害したか?いやそれはありえないな。他殺である事がばれればそのリスクは広告掲載費じゃおいつかないだろう。とすると総務部が自殺を偽装する為にUSライフに手を回したとすればその動機は何か?自らが手を染めてない他殺を隠す為に態々USライフに圧力をかける理由はなんだ」海野はおつまみにも生ビールにも手を出さずに考込んでいる。土岐は海野がUSライフに籠絡されていない事を信じて手の内を見せる事にした。「実は大手町の高層ビルの谷間に船井ビルという雑居ビルがあって、このビルに最近迄開示情報に広告を出し続けていた広告主の事務所があって一つは今話した八紘物産の第二総務部、それからビルのオーナーの船井の建築士事務所、もう一つは長瀬の会計士事務所、最後が海野さんの同業者だった玉井の玉井企画。こいつらを取調べれば事件の全貌が間違いなく明らかになると踏んでます。ただ今の所有無を言わせない様な証拠がないので直接調査する事をためらってます」そう土岐が言っても海野はまだ考込んでいる。土岐は手帳を広げて更に続けた。「ついでに言うとこのビルには八紘物産中興の祖と言われる馬田の事務所もあって、この馬田と船井と長瀬は其々海軍の兵学校、経理学校、機関学校に入学してるんすが三人共卒業してないんす。更に言うと廣川も陸軍予備士官学校に入学してるんすがこちらも卒業した形跡がありません。しかも廣川は入学した一年後に京都の清和家の書生となって松村という偽名で終戦を迎えてます」海野が目を細めてぽつりと言った。「一人でよく調べたな。俺が警察組織を使って調べた事と余り遜色がない」「余りと言うと」「廣川は陸軍中野学校に引抜かれたんだ。両親も兄弟もいなかった。余程予備士官学校の入学成績が良かったんだろうな。格好の人材だ」「と言う事は廣川はスパイだったんすか」「多分清和家の書生として潜込んだのは京都の清和家と東京の久邇家の日米和平工作を潰すのが目的だったんだろう。終戦間際の陸軍は徹底抗戦の方針で本土決戦を企ててた。和平推進派の清和家と久邇家は陸軍にマークされてた」「じゃ、その事が殺害の原因だったんすか」「六十年以上も前の話だ。どんな悪事も全て時効になってる。無関係とは思わないがそれが直接の原因だとしたら廣川はもっと早く殺されていただろう」二人の間に沈黙が訪れた。サラリーマン客が増えてきて酒場独特の喧騒が飛交い始めた。周囲の雑音が二人の黙考を際立たせた。「仁美の口を割らせる材料はないだろうか」と独り言の様に土岐が言うと海野が応じた。「もう一人の目撃証言が得られた。自殺で処理した後だったけどな。あんな安看板でも役に立った」土岐は海野の無精髭に包まれた口元を凝視した。海野はその口を徐に開いた。「男子学生だ。バイトの帰りだったと言ってる。親に内緒で大学さぼってやってたから、ずっと迷ってた。証言内容は仁美の最初の証言によく似てる。本人はエスカレータ脇の狭い乗車位置で壁に寄掛かってたそうだ。前日大酒飲んで二日酔いでバイトしたんで酷く疲れてたそうだ。前に老人二人が並んでた。人の流れはエスカレータを降りてホーム中央に向かうのでそこに人通りは殆どなかったそうだ。学生と老人の間に空間があった。学生は列を詰めて並んでいなかった。そこに電車が入線してくる警笛がした。その時小柄な男が学生と老人の間を擦抜けようとしてよろめいた。正確にはよろめいた様に見えた。学生はホームの端を歩いてた男が警笛に吃驚してホームの内側に歩く方向を変えた拍子にバランスを崩したんだろうと思ったそうだ。その直前に廣川が杖を手から滑らせて隣の老人がその杖を拾った瞬間、よろめいた男が廣川に接触し、ホーム前方に更によろめいた。隣の老人が杖を差出して廣川はそれを掴もうとしたが隣の老人が杖で突押す様な形でホームに転落した。学生は茫然とその情景を眺めていたが気付いた時には隣の老人もよろめいた男もいなくなっていて自分好みのOLが気が抜けた様にそこに立っていたそうだ。そのOLは騒然とするホームに立ち続け、ずっと携帯電話していたそうだ。俺の勘ではそのOLが仁美だ。学生に仁美の写真を見せたら似てるとの事だった」「そうするとそのよろめいた男が殺人犯という事すか」「それが事故だとすればもう一人の老人は逃走する必要はないはずだ。学生の記憶では廣川が落とした杖で線路に押出した様に見えたという事だ。その老人は普段誰も使用しない階段を駆上がって改札を出て行ったと駅員が証言している」「岡田という人すね」「そうだ。しかしよろめいた男の方は目撃されてない。少なくとも目撃者は他に現れてない。多分エスカレータの周りを一回りしてホームの反対側迄ゆっくり歩いて日比谷線の階段を上って行ったんだろう。ラッシュの時間帯じゃ誰も気付かない。ましてや人々は事故のあった日本橋寄りのホームに注意をとられてる。参考迄にこれがその男の似顔絵だ。学生は横顔しか見てないと言うので横顔の似顔絵になった。原画を縮小してある。原寸よりも縮小した方がリアリティがあるのが不思議だ」と海野は懐からB5に縮小された似顔絵のコピーを取出した。斜めにつんのめっている様な男の右の横顔がクロッキーで描かれていた。頬骨が突出て顎骨の鰓がはり、眼窩の窪んでいるのが特徴だ。玉蜀黍の様に細長い顔立ちを土岐はどこかで見た様な気がした。余りに顔が狭いので眼が顔に収まりきらず斜めに吊り上っている。

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